【語るべきこととは】
ルカによる福音書10章4~8節       

 先週の月曜日「東京同宗連」部落解放基礎講座が天理教の東京本部宗務所会議室で行われた。講師は長谷川健一さんと武藤類子さんである。二人とも4年前の東日本大震災で起きた人災である福島第一原発事故によって避難を余儀なくされている被災者である。

 長谷川さんは酪農家・写真家で震災前は飯舘村に住んでいた。そして原発事故で、飼っていた牛を残したままの避難を余儀なくされた。餓死した牛の映像はショックで目を覆いたくなる光景であった。その餓死した牛を豚が食い、その豚が山でイノシシと交配し、イノブタとなっているとのことであった。

 また武藤類子さんは、福島原発訴訟団の責任者として、何を今、訴えているのか、福島第一原発の映像を通して語られた。インフラ整備等が成し遂げられたとしても、人が蔑ろにされ、絶望した人たちが自らのいのちを絶たざるを得ない現実は、「復興」とはほど遠いと言うことをまざまざと知らされた。

 イエスは72人を任命し、二人一組にして福音宣教に遣わされた。このことはルカだけが記している。そこでイエスは彼らに言われる「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。」その後、弟子(宣教者)としての心構えを語られたのち、「この家に平和があるようにと言いなさい。」と言われる。聖書の平和は力による平和ではない。

 確かにそれよりも過激な旧約聖書の中には「聖絶」と言うジェノサイド的思想があることは否めないが、しかし終末にはすべてが露わにされ、共生の道が備えられるという。「彼らは剣を打ち直してすきとし/槍を打ち直して釜とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ2・4、ミカ4・3)と預言者は終末での希望を語り、またイザヤ書11章の前半には平和の王について語られている。平和とは欠けることがない。傷ついた部分がない状態をあらわす。すなわち、家庭で考えれば、家族の中に一人でも病人がいれば、平和・平安とは言えない。と言うことだ。イエスはここで72人の人たちに向かって、「この家に平和」があるようにといいなさい。と言われる。

 本田哲郎訳では、貧しさを分けあい、平和(傷ついた部分のない状態)の実現に協力せよ」と解釈し、小見出しをつけている。

 『釜ヶ埼と福音』という9年前に書かれた単行本が岩波現代文庫に納められた。新たに今日的状況が後書きにかえて書き加えられた。是非、読んでほしい。

 大変わかり易い。彼は、自分の弱さ、醜さをありていに語る。すなわち虚栄心がある自分、いい子ちゃん症候群の自分について語り、「釜ヶ埼」と言う現場から、聖書に生きるとはどのようなことなのか、現場から問い直す。

 「教会形成」がなされるとき、教会が「小さくされた人々」と共に歩まず、自分たちの考え方を押しつけ、それが福音であるかのように受け止めることの危うさと誤解について気づかされる。知らず知らずのうちに、その人たちを脇に追いやっているならば、それはイエスが語る「神の国」とはほど遠いと言うことを知らねばならないのである。すなわち、教会財政を考えるときにも、そのことを忘れてはならない。財政が逼迫し、赤字の会計報告がされたとしても。(幸い今年度の予算は満たされ、会堂改築建設資金に繰り入れることが出来る。感謝である。)

 イエスは、平和を告げ、病人を癒やされ「神の国はあなたがたに近づいた」と言われる。今日私は「語るべきこと」とはと言う宣教題を付けた。語るべきことは何か。そして語るべき者とは誰なのか、賀川ミッションに生きる「信仰共同体」・「礼拝共同体」として、共に考えたい。今の時代に対して教会もそして個人もアンテナの感度を鋭くして、「待ちつつ、急ぎつつ」復活に生き、主の来臨に備える「中間時」を生きる教会として歩みたい。