【わたしは見た】とは
ルカによる福音書10章17ー20節
                                       
 先週の月曜日、Mさんが脳梗塞で急逝された。82年10ヶ月の生涯であった。彼は戦争体験を通して、平和の大切さ、現憲法が「改憲(悪)」されることを憂いていた。

 最近わたしが一番気になっているのが、あの閣議決定依頼、あれよあれよ、という間に「自衛隊」がアメリカ軍などといっしょになって、軍事活動をする事が現実味を帯びてきていると言うことだ。

 憲法「9条」改憲を視野に入れた工程表が作られようとしている。力による支配はテロを産み、テロを抑止することでまたテロが産まれる。憎しみの連鎖が続くという現実を私たちは知らねばならない。

 今日は棕櫚の主日である。イエスが子ロバでエルサレムに入城され、十字架で死なれる最後の一週間を心にとめ、主のご受難の意味を考えるための主日である。

 10章1節には、イエスが72人を任命し、二組ずつで神の国の宣教者として派遣される様子、心構えが記されている。その結果、どのようなことが起きたのか、彼らの成功体験が語られている。

 72人は喜んで帰ってきて、彼らは「主よ、お名前を使うと、悪霊さえも私たちに屈服します。」とその結果をイエスに報告する。その報告をうけてイエスが言われる「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」ヨブ記1章6節、2章1節には、主の使いたちが集まっているところにサタンが来たと記されている。またルカ福音書4章13節には、「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」そして22章3節で「12人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。」と言うかたちで、サタンの再登場が記されている。

 イエスがガリラヤで活動を始められて、エルサレムへの旅を続けられるまでサタンは力を発揮することはなかった。すると、ここでイエスが「見ていた」光景は何を意味するのか。ヨハネ黙示録20章2節には、天使は、悪魔でもサタンでもある。また7節から10節には、サタンの敗北が記されている。それは「絵空事」として無視することも出来るが、本当にそれでよいのか、と昨今の国内外の状況の中で起きている出来事を通して考える時、わたしは「絵空事」として受け止めるだけでよいのか、と考えている。

 金曜日の「報道ステーション」のゲストコメンティターは元通産官僚の古賀氏であった。彼は「I am Not ABE」と言い放った。このままでは「戦前がはじまってしまう」という危機感がこの様な発言の背後にあることを、わたしはキャスターの古館さんと古賀さんの会話を通して知った。

 イエスが子ロバに乗って「エルサレムに入城」された。これはゼカリヤ9章9節にあるように平和を象徴している。

 私たちは、今、力による支配はいつか来た道、新しい戦前のはじまりであることを知らねばならない。ブルームハルト父子のように「待ちつつ、急ぎつつ」今を、この「中間時」を生きるものとして、聖書に聴き、聖書を生きる者として、復活の朝を迎えよう。