【拒む者?】とは
ルカによる福音書10章16節         

 20日で「オウム真理教」の地下鉄サリン事件から20年が過ぎた。先日NHKの特集番組で「オウム」の武装化がいつ頃からはじまったのか、なぜ、多くの若者たちが出家したのかが、元信者たちの証言で明らかにされた。

 前代未聞のテロを20年前、宗教集団が起こした。またアラブの春が訪れたとされていたチュニジアでも、痛ましい事件が起きた。過激派組織ISL(イスラム国)と繋がりのある組織が犯行声明を出したと報道されていた。 日本で唯一のイスラーム法学者の中田 考さんが『イスラーム 生と死と聖戦』 (集英社新書)という本を上梓した。

 「ムスリムには、国籍も血統も関係なく、誰でもなれます。入会手続きも入会金も必要ありません。二人のムスリムの立合いのもとで「ラーイラーハイッラーッラー、ムハンマドゥンラスールッラー」(アッラーのほかに神はなし、ムハンマドはアッラーの使徒なり)と唱えれば、誰でもその場でムスリム社会の一員になることができます。」と書かれていた。その中の一部に過激派がおり、その人たちが世界を震撼させている。

 「信徒の友」の4月号に2月1日に過激派集団「イスラム国」にいのちを奪われた後藤健二さんの死を悼んで 二人の人の追悼の言葉が掲載されている。一人は後藤健二さんが受洗した田園調布教会の高橋和人牧師、もう一人は写真家、ノンフィクション作家の桃井和馬さんである。和馬さんは健二さんが常に戦禍に苦しむ子どもたちの「声」なき「声」に耳を傾け、その子どもたちを通して、戦争の悲惨さを私たちに伝えたと語る。

 イエスが派遣された72人の役割は、「神の国」を宣教することである。すなわち、語る者となると言うことだ。そしてイエスは、16節でこの様に言われている。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」

 福音とは、様々な重荷を負う者たち、世間から小さくされた人々(ルカ7・22~23、18・15~17)が、後回しにされない社会に他ならない。神の言葉を聞くとは、イエスの言葉と行動を受け入れることであり、その言葉に生きる人である。反対に拒む人とは、イエスの言葉を拒む人、すなわち福音を受け入れられない人である。

 キリスト教を信じるとは、新しい生き方が、生きる勇気があたえられることである。どんな逆境の中にあっても、それでもイエスといえる人生を持ち合わせることである。 私たちの主はサタン(神に敵対する者)に勝利される。主が共にいて下さるから大丈夫なのである。どんな逆境に晒されてもポジティブに、前向きに生きることが出来るのである。フーポンクリスチャンと言われる人、すなわち日曜だけ信者と言われる人たちがいることをご存知だろうか。

 五味川純平の『人間の条件』のモデルとされているのが、故人となった隅谷三喜男である。彼は「日本のクリスチャンは日曜日だけクリスチャンになる人たちがおり、教会も日曜だけ一階に降りてきて、それ以外は二階に住んでいるという。(牧師の説教も然り)」すなわち生活と信仰の二元論がそこにはあると言うことだ。それでよいのか、良いはずがない。レントのこの時、私たちは自分の信仰生活をふりかえり、主の御心に生きるとはどのようなことなのか、共に考えてみよう。福音を受け入れた者として。