【キリストに受け入れられる生き方と】
ルカによる福音書9章43節~48節      


 ご承知の方もおられると思うが、フリージャーナリストの後藤健二さんは、教団の田園調布教会の教会員である。彼が女子聖学院等で定期的に講演活動をし、彼に感化を受けた子どもたちの中には、将来自分も国際貢献に携わる仕事がしたい。と言う生徒がいること、また後藤さんの安否を気遣っている子どもたちが大勢いることが金曜日の「朝日新聞」に紹介されていた。

 「マスコミは後藤健二さんばかりにスポットを当てている。これは明らかに差別だ。」とある会合(「東京同宗連」の常任委員会)後の夕食の席で浄土宗の僧侶が言われた。

 湯川遙菜さんは(民間軍事会社を立ち上げ)そして過激派集団「イスラム国」に入ったということで、私の中に無意識のうちに、戦場の悲惨さを伝え、子どもたちの現実を伝えてくれている.後藤健二さんは助かってほしい。けれども湯川さんは「殺されても仕方がない」と言う論理があることに気づいた。

 神の前には、テロリストのいのちも戦火に苦しむ人のいのちも、皆同じように価値があるのに、わたしの中で「仕方がない」いのちと「助かってほしい」いのちがある。

 今日の箇所は、イエスが二回目の受難予告後に弟子たちが誰が一番偉いのかを議論している箇所であるここに描かれている弟子の態度は私たちの社会の縮図のようだ。役に立つ人は偉い。役に立たない人は偉くない。と言うことがまかり通ることで、弱者は切り捨てられる。イエスはここでご自分の受難の道について話されたにもかかわらず弟子たちはその意味を受け止めてはいない。45節には「弟子たちはその言葉がわからなかった。彼らには理解出来なかった」とある。彼らは立身出世を夢見てイエスに従ったと読める。

 マルコではそのことが「弟子の無理解」と言うかたちで明らかにされている。ルカは若干そのニュアンスが弱い。しかしイエスの言葉を理解してはいないという点ではマルコ同様である。実は今日のこの箇所を読む手助けとして「イエスという人の物語」(ホセ・イグナシオ・ロペス・ヒビル、マリア・ロペス・ヒビル共著)のこの箇所を読んだ。そこに描かれている子どもは乱暴な言い方が許されるならば、悪ガキでしかもストリートチルドレンである。と彼は言う。

 そのように描くことは自然なのだが、わたし自身そのようには考えて読むことは皆無であったといわざるを得ない。弟子たちは誰が一番偉いのか。と議論したときにイエスはすかさずにそこにいた子どもの手を取り、「わたしの名のためにこの子を受け入れる者は、わたしを受け入れる…」といわれている。子どもは弱者を象徴している。

 「21世紀の資本」が日本でも15万部を売り上げている。その著者であるトマ・ピケティが来日した。自由主義経済ではダメとはっきりと言う。獲得ではなく、分配をいう。また経済学者の浜 矩子さんと本田哲郎さんの対談を読んだ。そこにも同様の趣旨のことが話し合われている。弟子たちは、イエスの受難の意味をこの時点では理解していない。

 イエスが十字架に架かり三日目に復活するといわれてもそのことを理解してはいない。三度同様のことを言われていると言うことは回数ではない。その人がわかるまで言われたというニュアンスがそこにはある。( ルカ9章21節、43節、18章31節以下) 弟子たちがそのことを理解したのは復活後、約束を信じてエルサレムで待っていたときの「聖霊」体験、すなわちペンテコステを経験したときからだ。

 私たちは今、聖霊の時を生きている。教会は聖霊によって導かれる。ちょうど帆船が風を受けて進むように私たちは、聖霊に導かれて、今を生きる。そのような私たちがどのように生きるのかが、問われている。