【悲劇は今も続く】
マタイ福音書2・1~12節
                                        
 東方から星(彗星であったとも考えられる。)に導かれてきた占星術師は、ヘロデの所に行き「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」この言葉はヘロデを狼狽させる。ヘロデの残忍さをマタイは16節の幼児皆殺し事件を通して私たちに語っている。占星術師は、ヘロデのブレイン(祭司長・律法学者)を通して、ベツレヘムで誕生する事を知り、ヘロデの所を出発する。

 すると燦然と輝く星が幼子のいる場所で止まる。そしてそこで幼子と出会う。ひれ伏して幼子を拝んで彼らは、宝の箱を開けて「黄金」「乳香」「没薬」を贈り物として献げる。

 そして夢で「ヘロデの所に帰るな」という言葉で「別の道」すなわち福音の道を見いだし、帰途につく旅へと出発した。これが「公現日」に読まれる今読んだ聖書箇所である。

 しかしそれでこの「誕生物語」は終わらずに、残忍なヘロデから逃れるためにヨセフとマリアは幼子を連れてエジプトに逃れ、ヘロデが死ぬまでその地に「難民」として止まったこと、そしてエジプトに逃れることが出来なかった二歳以下の男の子は、一人残さず殺されたことが語られる。本来であれば、このような悲劇は語られない方が物語としては都合が良いはずであるが、あえてマタイはこの悲劇を語る。

 その理由は何なのか。モーセの誕生物語(出エジプト記1・16)を読むと、同じような虐殺がエジプトのファラオによって行われようとしたが、助産婦の機転によって難を逃れたことが語られる。

 今日私は占星術師がイエスの誕生を心から喜び「黄金」「乳香」「没薬」を献げた後、このような悲劇が語られるのかを考えている。「キリスト新聞」が戦後70年企画として連続インタビューを掲載していたが、しんがりはカトリック正義と平和協議会会長の勝谷太治氏である。カトリックの司祭として憲法9条を守れと語り、そのための運動を推進しているのが、勝谷氏に他ならない。

 そのインタビューの中で、報道ステーションで古館伊知郎キャスターが「空爆による誤爆もテロ」という趣旨の発言をしたことで、バッシングされたことを取り上げ、「しかし、私もニュースで発言を聞きましたが、理屈上のテロと空爆の同一視ではなく、突然理不尽に愛する者を奪われた人の視点に立ってみれば、テロも誤爆も彼らにしてみれば同じことではないかという、犠牲者の痛みに対する共感の立場からの発言だったと思います。」と述べている。

 また1915年4月オスマントルコ政府によって行われたキリスト教徒アルメニア人に対するジェノサイドを素材とした映画「消えた声が、その名を呼ぶ」を紹介している。今なお、戦火に苦しむ民衆がいる。比較的経済的に余裕がある人たちは「難民」となり、それが適わない人たちは空爆でいのちを奪われるのではないのか、と言う恐怖に晒されている。悲劇は今も続いている。ラマ(エレミヤ書35・15)で激しく泣く声が、ラケルはベニヤミンを産んでそして死ぬ。ラケルの悲しみはバビロン捕囚へと通じている。

 私たちの人生にも苦難がある。その苦難は私たちを長い出口のないトンネルへと迷い込ませる。そのトンネルでもがき苦しむ。しかしその苦難は失望では終わらない。夜明けがあるように、かならず希望が与えられる。現実の世界を見れば、そこに光を見いだすことは出来ないかもわからない。しかし信仰によって私たちは希望を見いだすことが出来る。その導きを信じ、どんなことがあっても、くじけることなく、主の備えられた道を歩むものでありたい。