【備えをおこたるな】
 ルカによる福音書12章35~40節
                                    
 今日は「障がい者週間」としてこの礼拝が献げられている。1981年の「国際障がい者年」以来、教団は11月の第2主日を「障がい者週間」として定めている。障がいを負うということはマイナスであるとわたしたちは考えている。バリアフリーとは、建物だけではなく、「偏見」と言う心の壁が取り除かれることである。木原活信さんの『「弱さ」の向こうにあるもの』 -イエスの姿と福祉のこころ-を是非、一読してほしい。また向井谷地生良さんの近著(むかいやうちいくよし)「精神障害と教会」には、教会のあるべき姿が描かれている。今日の聖書箇所に書かれているのは、一言で言えば「主の来臨」に備えることである。「主が再びこの地上に来られるまで、備えをせよ」といわれる。

 35節では「腰に帯をしめ、灯火をともしなさい。」という。腰に帯びを締めるということは、自立し、備えなさいということである。そして36節で、宴会を行った主人の譬えを通して、いつでも行動できるように準備しなさい。すなわち、いつイエスが再び来られても狼狽えることなく、待つことが出来る僕、目を覚ましている僕は幸いである。という。今日の箇所を分かち合うにあたって「目を覚ましなさい」というみ言葉がキーワードとなる。マルコ13章33節以下、マタイ24章42、25章1以下の譬えで「目を覚ましていなさい」とイエスは言われ。そしてこの箇所では、「婚礼の宴から、いつ帰ってきても狼狽えることなく、準備万端にして備えなさい。」といわれている。

 終末とは「神の国」(「神の支配」)が近づくことである。すなわち「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生きかえり、貧しい人々は福音を告げ知らせられている」(ルカ7章22節)とイエスが言われた言葉を記す。すなわち、あらゆるものが抑圧から解放される。ルカは他の福音書著者同様、終末は間近であると考えている。そしてパウロもまたそのように考える。新約聖書で最初に書かれたのは、Ⅰテサロニケの手紙である。この手紙はパウロが書いた。パウロはこの手紙で、主の「来臨」が間近であると語る。しかし、「来臨」が間近であるというパウロの言葉で多くの信徒は狼狽えてしまい、自然体で生きることが出来なくなる。5章1節以下を読むならば、その緊張がこちらにも伝わってくる。

 今日私は、「備えをおこたるな」という宣教題をつけた。その意味はいつでも主に会う備えをすることである。しかし「主が来られる」のがいつになるか分からないので、備えよということになる。わたしたちの教会は、どうであろうか。いつ主が来られても大丈夫という一人一人が日常生活を送っているのか、送ってきたのかが、問われることになる。わたしはこの聖書箇所を読みながら、イエスが語られたある譬えを思い浮かべた。それは25章31節以下である。その箇所はタラントの譬えと深く結びつくと考える。神さまから与えられた才能は、主のために用いる。すなわち、主の来臨の時、わたしたちは良い僕といわれるためには、与えられた才能を己のために用いるのではなく、「神と人に仕えるため」に用いるということだ。「来臨」信仰は、わたしたちの住む世界とは関係ない。絵空事とは思ってはならない。忠実な僕は備えを怠らない。それとは反対に自己中な僕は備えを怠る。わたしたちは備えを怠ることなく、隣人に仕える者として、聖書に生き、教会の交わりを大切にし、一人一人が「待ちつつ、急ぎつつ」(ブルームハルト父子)の信仰に生きる者でありたい。