【わたしたちに求められていること】
ルカによる福音書12章41~48節
                                      
 礼拝後、全体協議会が行われる。全体協議会の準備のため、「堀切教会60年史」、また「雲の柱」に掲載されたインタビュー 「雲柱社と共に歩んだ61年」を読んだ。あらためて賀川豊彦が何を考え、この地に教会と保育園を作ったのか、伝道と社会奉仕という二本柱が両輪として上手く機能しなくては、教会と保育園との関係は希薄となり、賀川ミッションを継承することは出来ないことを実感した。

 今日、共に分かち合いたいみ言葉は、ルカによる福音書12章41~48節である。このみ言葉は「目を覚ましていなさい」という先週の続きとなる。イエスの愛弟子ペトロがイエスに質問することからはじまる。「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか。」ペトロの質問に対して、イエスは直接には答えられず、すぐれた管理人の譬えを通して語られている。使徒言行録には、最初の殉教者ステパノたちのことが書かれている。ステパノ以下7名は、「執事」として教会に仕える。またⅠペトロの手紙5章には、クリスチャンリーダー像が語られている。ここで批判されているのは、12章1~3節によれば、ファリサイ派たちである。イエスはその人たちを「偽善者」と呼ぶ。わたしは、教会の指導者たち、そして、キリストの恵みに生きるすべての人たちに向けて語られている言葉として読みたい。主人はいつ帰ってくるか分からないことが、前の35節では「婚礼」の譬えで語られている。そしていつ帰ってきても良い備えをせよと語られている。たとえ、深夜の2時、3時であろうとも、備えている。すなわち目を覚ましていなさいという。43節「主人が帰ってきたとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。」37節「主人が帰ったとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」その人たちに主人は全財産を任せる。しかし、主人の帰りが遅れると思い、下男、下女を蔑み、横暴に振る舞う管理人は裁かれるという。新共同訳では「彼を厳しく罰し」とあるが、ある訳では「八つ裂きにして」(田川健三)と訳している。不忠実な管理者は裁きから免れることは出来ない。しかし故意ではなく、過ちを犯したものは民数記15章29節によれば、過失に対して裁かれるが、その裁きは厳しいものではない。

 大切なことは、イエスに従い、イエスに倣うことに他ならない。賀川は「伝道」と「社会奉仕」は二本柱であり、両輪でなくてはならないという。どちらが欠けても機能しない。社会福祉法人「雲柱社」と堀切教会の今後の在り方が問われている。服部栄理事長は「組織は異なっても根は一つである、という強い結びつきがあったからではないかと考えています。現在、法的には保育園運営責任を持つ社会福祉法人雲柱社は、教会が保育園を支えて下さっていますことを心から感謝し、さらに両者が力を合わせてこの地域に主の栄光を表していくことを願っています。この地に賀川先生が教会と保育園をつくられた真の理由であると考えるからです。」と書いている。

  地域に仕える教会となるために、わたしたちは何を土台に据えるのか、…それは十字架と復活の主を信じ、「キリストに従う」ことである。そのために、わたしたちは霊性を身につけねばならない。その「霊性」とは「弱さの中に働く」Ⅱコリント12章9節以下、主によって歩む者に与えられる。そしてその者こそが良い管理人であることを確認し、祈りを共にしたい。