【愚かな者よ】
ルカによる福音書12章13~21節
世界宣教の日・世界聖餐日
                            
 今日は「世界宣教の日」・「世界聖餐日」としてこの礼拝が献げられている。本年2月まで早稲田教会で奉仕された長尾有紀さんは宣教師として、今、韓国のハンシン大学院で修士論文「エキュメニズムと社会改革」を書くと共に、ソウル第1(チェイル)教会で奉仕している。

 この教会は、1953年に北朝鮮への宣教のために創設された教会で、韓国の民衆化闘争にも貢献した。貧しい人々、「小さくされた人々」と共に生きる教会として歩む決断をしたことによって、外部からの圧力で分裂し7年間会堂を持つことが適わず、路上での礼拝を余儀なくされた。彼女のレポートを読みながら、今一度教会の在り方を考えさせられた。

 東支区には山谷と島嶼部(大島・新島・三宅・八丈)がある。以前支区の教師会で戒能牧師(前東駒形教会 現千代田教会)は、戦前この地域で伝道・宣教の任を担っていたのは、いわゆるメインチャーチではなかったことを指摘された。

 先週わたしは、支区の講壇交換で「大島元村教会」で礼拝奉仕をさせて戴いた。元村教会は104年間この地に伝道すると共に保育園などのソーシャルサービスを行ってきた。愛餐会の時、今のような道路整備がなされず、電気も通っていない場所で、教会が作られたことを伺った。貧しい人たちを蔑ろにして、教会はこの世に仕えることは出来ない。あなたがたは「神と富とに兼ね仕えることは出来ない。」とイエスは言われる。また富める青年が、救いを求めてイエスの所にやって来たとき、イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」このイエスの言葉は、彼に衝撃を与え、彼は悲しみながら立ち去る。(マルコ10章17~22節)またヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と言っている。しかし、そのような信仰に生きられないのが、わたしたちの姿だ。申命記20章15~17節には、どのように遺産を相続させるのかが書かれている。財産争いは、財産を持っている人たちの問題である。格差社会の中では、貧困の連鎖があるといわれるが、貧困に喘いでいる人にとっては、一日の糧(パン)を得るのが精一杯で、財産の相続などは全く関係ない。

 しかし、ここでは、イエスに質問した弟に答えておられるだけではなく、そこにいた民衆にも語られている。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」貪欲とは、もっと、もっとと際限のない要求である。この譬え話に登場する農夫はかなりの資産家であり、財産があった。だからこそ、倉を建てようと考えつく。際限のないのが、欲望に他ならない。思い起こしてほしい。「あなたがたは神と富とに兼ね仕えることは出来ない。」(マタイ6章24節)とイエスが言われたことを。主の御心にそぐわない生き方とは、際限ない欲望に生きることであり、もっと、もっとと際限ない貪欲な生き方に他ならない。

 世界宣教日・世界聖餐日のこの時、顔を曇らして立ち去った青年や愚かな農夫のように、自分の財産を握りしめ、分かち合うことをせず、握ることに終始するならば、わたしたちも「愚かな者よ」と主から言われてしまう。互いに助け合い、祈り合いながら、主に従い、主の招きに応え、備えられた「主の食卓」にあずかろう。