信仰告白とは
ルカによる福音書9章18~20節

 新年明けましておめでとうございます。2014年アベノミクスで恩恵を受けたのは、ごく少数の人々です。若きフランスの経済学者トマ・ピケティが書いた『21世紀の資本』は瞬く間に世界を席巻し、翻訳が
11月の末日に店頭に平積みにされ、すでに6版となっています。そこには、「格差社会」がなぜ起きたのか、そのことを18世紀の資本主義から掘り起こし、明瞭な分析でこれからの世界の経済がどうなるのかが、語られていると言われています。

 全く門外漢のわたしもこの本を年末に数冊の解説書と共に購入しました。読めるかどうかわかりませんが、グローバル経済の行き着くところが何処なのか、彼の主張を通して考えることが出来ればと願っています。このことについては教会HPの今月の言葉(1月)でも言及していますので、興味のある方はお読み下さい。

 この様な「格差」と共に問題となっているのが、「排外主義」です。そのことを象徴しているのが、ヘイトスピーチです。そこでは偏狭なナショナリズムを土台とした「排外主義」が何の疑問もなく、すなわち「在日外国人」(朝鮮・韓国)に対して、罵り、尊厳を無視した差別語が間髪を入れずに発せられています。

 「格差社会」の中で、自分たちよりも相手はましな生活をしていると言う無責任な喧伝によって、他者を攻撃、排斥し、傷つけ、追い出すことを意図した運動がネット右翼によって公然と行われています。そこには多くのサイレントマジョリティーがいます。(「在特会」は格差社会によってもたらされているばかりか、それとは無縁の中にある人たちにも支持されているという懸念の声もあります。)

 一人のオランダに住む日本人聖書語学者が最近『私のヴィア・ドロローサ』と言う本を上梓しました。その数ヶ月前には『折られた花』-日本軍「慰安婦」とされたオランダ人女性の声ーという本を訳されています。専門は旧約聖書の言語学です。きわめてアカデミックな研究をされてきた方です。その人が全く自分の学問と一見無縁と思われることをなぜするのか。そこには「戦争責任」を負う一人の信仰者として、そのことを言わずにはこの世を旅立つわけには行かないと言う並々ならぬ決意があらわされています。

 ペトロはここで、「それではあなたは何者だと言うのか」というイエスの質問に対して「神からのメシアです。」と答えている。この告白はイエスの最初の受難予告の前に置かれている。マタイもマルコも同様に配置している。ペトロだけがそのようにイエスの質問に対して答えている。この告白は、「ペトロの信仰告白」として有名な箇所である。他の弟子たちが、「洗礼者ヨハネ」「預言者エリア」という答えに対して、ペトロは「神からのメシアです」と答えているのである。その告白直後、イエスは受難予告をされるのである。

 信仰告白は、私たち信仰共同体にとって無くてはならぬものとされる。「使徒信条」にはじまって、多くの「信条」がとなえられ、信仰告白が生まれ、教会がイエスを信じ従う群れであるならば、今後も新しい今日の時代を見据えた聖書に生きる者としての信仰告白が生まれると思う。

 信仰告白とは、イエスを「主」と信じ、イエスに従う者として歩むことを意味している。その意味で、あの聖書語学者の行動をわたしは考える。すなわち、聖書を私たちは読むのではない。ある意味「身読」し、聖書に生きるのである。だからこそ、「あなたはメシアです」と告白する者としてのこの世での役割がある。そのことを新年に当たりひとり一人が考えていこう。