【関わりから生まれる】
 ルカによる福音書9章37~43節          


 「山上の変貌」の後に起きた出来事である。そこには大勢の群衆が待ち構えていた。イエスに救いを求めて、そこに一人の父親が登場し、イエスに懇願する。「息子を癒やして下さい」と、マルコ・マタイの弟子たちがイエスに質問する場面はルカでは省かれている。共通するのは、父親には息子がおり、手がつけられないような病に苦しんでいると言うことである。大勢の群衆がそこにはいたとあるので、同じような重荷を抱えた家族もいたのかもしれない。当時は病イコール罪と捉えられた。旧約聖書に登場するナアマンは重い皮膚病に苦しんでいた。(列王記下5章)そのナアマンを癒やしたのは、エリシャである。また代表的な人物がヨブだ。彼の苦悩は推し量ることは出来ない。

 病は不条理である。不条理と言えば、今、過激派集団「イスラム国」に拘束された二人もきっと、なぜ、どうしてと問うているに違いない。

 その子の病状と言えば、「突然叫び出す。けいれんを起こし、泡を吹く。」その病は家族にとっても苦痛であったに違いない。想像ではあるが、今までも噂を聞きつけては息子の病を癒やしてもらいたいと救いを求めていたに違いない。弟子たちにもイエスは9章1節を読むと、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力が与えられたと記されているので、この息子の病も癒やせたはずである。しかし、それは出来なかった。彼らは無力であった。

 なぜ、弟子たちは無力であったのか、それをルカはこの様に書いている。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」とイエスは言われた。さらに続けて「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢していられようか。」(41節)そしてその子をここに連れてきなさいと言われる。

 弟子たちも病に苦しむ人がいることは知っていた。しかしその病に苦しむ息子も父親もその他大勢に過ぎなかった。不信仰とは、神を信じないと言うよりも、神に委ねることが出来ない状態を表しているようだ。私たちに苦難が訪れると、私たちは狼狽える。パニックになる。それがわたしだ。イエスの弟子のペトロは、「神からのメシア」であるとイエスの質問に答えているのに、そのイエスの言う言葉が理解できてはいない。

 事実イエスが最初の「受難予告」(23節以下)をした時、どうであったのか。マルコにはその時、いさめはじめたペトロに向かって「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マルコ8・33)で厳しく叱責しておられる。イエスの弟子たちは、力が与えられていたにもかかわらず、その力を発揮してはいない。それをイエスは「よこしまな時代」と言っておられる。無力な弟子たちが力を発揮するのは、聖霊降臨の出来事以後だ。

 私たちは、今、科学万能の時代を生きている。医学は進歩し、多くの病が治療されている。しかしそれでも治らない病も多くある。癒やして下さい。と私たちはその時に祈る。祈りが適えられるのか、適えられたとしても私たちの願いとは異なっているかもわからない。それでもなお、私たちは祈ることが出来る。委ねることが出来る。

 この父親はイエスに委ねた。その結果、子どもの病は癒やされ、イエスは子を父の下に返される。今日私は、関わりから生まれる。と言う宣教題をつけた。私たちが神を信頼し、すべてのことは神のみ手にあると信じるならば、道は開ける。

 イエスがその父親と息子と関わられたように、私たちも人と人との関わりを大切にし、自分の痛みのように他者の痛みに共感(共苦)し、「当事者性」を身につけて歩みたい。