【これにきけ】
ルカによる福音書9章28~36節

 阪神・淡路大震災から20年、東日本大震災から4年が過ぎようとしているとき、岩波新書から『復興災害』という本が上梓された。「災害弱者」と言われている人たちの現実が書かれている。阪神・淡路大震災の時、兵庫教区は「地域の復興なくして、教会の復興なし」として宣教方針を作り、被災者支援を続けてきたが、今どうなっているのか、そのことをこの本を読んであらためて考えた。

 教会の使命は宣教であり、伝道である。伝道とは「選択」と「集中」と言う論理、すなわち効率論で議論されてはならない。宣教も伝道もイエス・キリストを伝えることである。すなわち聖書が語る救いを語り、キリストに従う者にその道を伝えることである。今日の箇所は、「山上の変貌」と言われている。マルコとマタイにも並行箇所があるが、マルコとマタイはほぼ同じように書かれているのに対して、ルカだけが違っている箇所がある。日付と目的(祈るため)、連れだった弟子たちの順番が違っている。ある注解書にはこの箇所を読むための手引きとして出エジプト記24章を読むようにと勧めている。そこにはモーセを通して神が契約を締結されたことが記されている。(12節以下)山は単なる場所ではなく、聖なる場所である。ここに、モーセとエリヤが登場する。モーセは出エジプトの指導者、エリヤは最初の預言者である。エリヤは神の言葉に徹底的に生き、その言葉を伝え、また神の正義を語った。(列王記上17~19章、21章、列王記下1~2章)彼は権力者に対しても毅然とした態度を貫き通した。そして火の車に迎え入れられて天に昇ったと伝えられている。イエスはそこでエルサレムで遂げようとしている最期について話された。最期は「エクソドス」出エジプトのことであり、エルサレムでの「旅立ち」を意味している。すなわち、十字架、復活、昇天を二人の者たちと話されていた。(出エジプト記34章29、30節)その時、ともにつれていた弟子たちは、眠たくてどうにもならなかった。と記されている。モーセは「律法」エリヤは「預言」を象徴しており、イエスは律法と預言を兼ね備えた「メシア」として描かれている。

 この出来事を目撃したペトロはとんちんかんな言葉を発する。それが小屋を三つ作るという言葉である。その時の様子をルカはペトロが自分でも何を言っているかわからなかったと記している。その後、声がする。この声は(イザヤ書42章1節、)イエスが受洗された時の声である(3章22節)。9章20節でイエスはペトロに「わたしを何者だと思うのか。」と問われた。ペトロは「神からのメシアです」と答えるが、その答えが天の声としてもたらされる。「これはわたしの子選ばれた者。これに聞け」に他ならない。弟子たちはエルサレムへの「旅立ち」(「受難」の旅)を理解してはいない。それ故にイエスは見たことを誰にも話さぬようにと口止めされたのではなかろうか。

 山は教会を象徴している。私たちは毎日曜日この場所に呼び集められ、礼拝を献げている。そしてイエスが山から降りられたようにこの世へと遣わされていく。だからこそ、礼拝が大切となる。しかしその礼拝は己の「安心立命」にとどまるのではない。今の現実を向き合うためのひとり一人がエネルギーを蓄積する場であり、隣人に仕えるための拠点なのだから。だからこそ私たちは祈りをともにする。