【キリストに従う道】
ルカによる福音書9章21~27節

 先週、想田和弘の「熱狂なきファシズム」を読んだ。そこには低温やけどのように、じわじわと知らず知らずのうちに、ファシズムが近づき、民主主義が壊されると、アメリカに在住の映画監督の想田氏は書いている。それが特定秘密保護法、集団的自衛権、原発再稼働などなどである。かつての日本は国を守るために敵艦に特攻していのちを散らし、忠臣蔵のように忠義を果たす。この様な「忠君愛国」が美化されている今日の「空気」をわたしは看過できない。

 その読後にフランスではテロが起き、17人の尊きいのちが彼らの論理で殺された。国際社会はヒステリックに対応せず、テロが生み出された背景にも目をとめ、犠牲となった人たちの家族、ショックを受けた人たちへのケアをしてほしい。 

 マルコを読み、その後にマタイとルカを読み比べると、ルカには「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マルコ8・33)「サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16・23)が省かれている。

 イエスがわたしを誰と思うか。と言うイエスの問いに対してペトロは「神からのメシア」と答える。その後、弟子たちに口止めした後、受難予告をされた後、イエスは弟子たちに対して「わたしについてきたいと思う者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい。」と言われる。イエスは私たちにもこの言葉をかけられている。自分を捨てる。日々、十字架を背負う。と言うことをどのように受け止めれば良いのか。ある人は自分を捨てるとは、私利私欲と縁を切り、キリストを選び取ること」と読んでいる。イエスの弟子たちは、イエスの招きに答え、即座に今まで生業としていた職業を捨てて、イエスに従った。すなわちペトロをはじめとする弟子たちの中には漁師が(ルカ5・1~11)おり、徴税人レビがいた。(ルカ5・27~32)彼らは「キリストに従う」がゆえに新しい道を歩む決断へと導かれる。

 私たちは、そのような歴史的な人物として多くの人たちを知っている。イエスの弟子、キリストの使徒パウロ、アウグスティヌス、アシシのフランシス、ルター、ウエスレー、内村鑑三、植村正久、山室軍平名前をあげればきりがないが、一人の人物にスポットを当ててみよう。それは教団議長鈴木正久である。彼は、所謂「日本基督教団の戦争責任告白」を行った人であり、膵臓癌となり、途上で56歳11ヶ月のこの地上での歩みを終え、御国へと「旅立った」。彼は教会を愛した。教団を愛した。けれどもその教会は「明日の教会」として、福音に生きる教会であり、戦時中に行った様々な神に背く行為を悔い改め、「戦争責任」を担う預言者的教会に他ならない。

 人間的に考えれば、なぜ、どうして…と思われる。歴史にはifはないと言うが、彼が生きていたら、教団は現在のような混迷を歩まずにいたのではないのか、現執行部のような体質はなかったのではないのか…けれども、神は彼に地上での生活に終わりを告げ、召されたのである。

 私たちの生には終わりがある。ある人たちはその終わりを日々感じながら、生きておられる。また意識せずに生きている。

 パウロは私たちのキリスト者の生をこの様に言っている。「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。(ガラティヤ信徒への手紙2章19~20節)この言葉を心にとめ、終末を生きる者として「中間時」を生きるものでありたい。主にすべてを委ねた「キリストに従う」一人一人として。