【神の言葉を聞いて行う人】
ルカによる福音書8章19~21節
                                      
 岩波のシリーズここで生きる 遠藤比呂通さんの『希望への権利――釜ヶ崎で憲法を生きる』を読んだ。彼は釜ヶ崎に来る前は、大学で「憲法」を教えていた。その彼がキリスト教に導かれ、イギリスである宣教師と出会い、大学をやめて宣教師となることを決心する。けれどもその願いは適わず、その後「釜ヶ崎」で金井愛明牧師と出会い、大学を辞し、日雇い労働者の様々な問題を解決するために弁護士として生きている。来てまもなく彼は、「ここで弁護士として生きることは出来ない。生活が出来ない」と言って金井牧師に相談するシーンが感動的だ。金井牧師は、なにも言わずに遠藤さんの言葉に耳を傾ける。そして最後に「釜ヶ崎」で生きると言うことは、どのようなことなのか、そのような気持ちで、ここで生きることは甘すぎると、いうことを金井愛明牧師が独り言のように言われたことが記されている。それを契機に彼は「釜ヶ崎」で弁護士として生きる決心をし、そして今どのような活動をしているのか、どのようなことを考えているのかが、この本には著されている。

 遠藤比呂通さんは言う「生きる権利は誰にでもある。けれども忘れ去られてしまう人、取り残されている人たちが必ずいる。」その人たちを蔑ろにしている社会に対して、鋭い批判と静かな怒りが、ここで語られている

 イエスは、ここで「わたしの肉親」とは「神の言葉を生きて行う人」(8・21)であると言う。マルコを下敷きにして書いたルカであるが、マルコの方には、3章21節で「気が狂ってしまった」と思われていたイエスを肉親が取り押さえに来る。マタイとマルコをルカと比較して読むと、明らかに編集の意図が違っている。ルカだけが「種まきの譬え」の後にこの「出来事」を記している。なぜ、ルカはこのような編集にしたのか、そこにルカのメッセージがある。

 わたしは、この箇所を読みながら、パウロの次の言葉を思い起こした。それが「神の家族」(エフェソ2・19)という言葉である。その前の節には、敵意という隔ての壁を取り除かれ、あたらしい人、一つの霊に導かれている者を外国人も寄留者もなく…(2.19)とある、すなわち、教会は「神の家族」であると言う。だから今でも多くの教会で兄・姉と呼び合う。すなわちあたらしい関係(コイノニア)が教会を通して生まれる。イエスには、れっきとした兄弟、姉妹がいた(マルコ6章3節)ことをマルコは記す。イエスは新たにされたものは、皆、「神の家族」である、といわれる。わたしたちは新しくされた者として、どのような日常を送っているのだろうか。ルカはここで「神の言葉を聞いて行う人たちがわたしの兄弟である」と言われる。その前の種まきの譬えで良い土地に蒔かれた種は、「み言葉を聞く」と言われている。先の譬えでは、み言葉を聞くことが出来る人が神の祝福を受ける。すなわち100倍の実を結ぶとイエスは言われる。

 もういちどテキストに戻ろう。群集に遮られて、イエスに会うことが出来ずイエスの肉親は外にいた。「母上とご兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます。」そのことばを受けてイエスは言われる。わたしの母、わたしの兄弟とは…

 わたしたちは、み言葉を聞いて行う人にならねばならない。み言葉に聞くとは、その後の10章25節以下の「親切なサマリア人」の譬えのように、他者の痛みを自分の痛みのように感じ、自分のこととして行動する人である。

 神さまがわたしたちをそのように導いてくれる。その恵みを決して忘れることなく、信仰共同体・礼拝共同体として、一人ひとりがイエスの言葉を素直に聞き、実を結んだ種として歩む者でありたい。