【向こう岸に渡ろう】
ルカによる福音書8章22~25節

 先週の木曜日「朝日新聞」が緊急記者会見で、社長自らが福島第一原発事故でのいわゆる吉田調書の読み違いがあったこと、また日本軍慰安婦問題では、吉田清治氏の「強制発言」には、信憑性がないことを認め、謝罪した。報道が信用できない。誤報をそのままにしていられるような体質は勿論容認出来ない。しかしながら、「あった事を無かったことのように」すり替えることはあってはならぬことであり、到底容認することは出来ない。この点を踏まえて教会のHPの今月の言葉を書かせて戴いたので、興味のある方はお読み戴きたい。今、日本は曲がり角に来ている。日本ばかりではない。アメリカは「イスラム国」と名のるテロ集団を攻撃するために、シリアを空爆するとのオバママ大統領の演説が世界に配信された。ロシアとウクライナ、クリミア地方の問題、そしてロシアを非難するNTOの国々、一色触発の「空気」を報道が伝えている。と考えているのは私だけであろうか。「秘密保護法」、「集団的自衛権」行使容認、デモに対して規制をするような雰囲気、そして差別煽動としての「ヘイトスピーチ」どれをとっても、「戦後69年」のこの年がターニングポイントになっているようだ。嘗ての教会のように預言者としての「見張り番の役割」(エゼキエル書33章)を見失うことなく、この時代の中で「時の徴」を見定め、見極めなくてはならない。

 今日の箇所は、22~56節の「奇跡物語」の最初である。すなわち、自然に対する奇跡と病気のいやしが「奇跡物語」として纏められている。ガリラヤ巡回の記録8・1、2を踏まえてこの箇所を分かち合いたい。イエスは弟子たちに「向こう岸に渡ろうと」言われている。向こう岸とはガリラヤ湖の北岸から西岸辺りをイメージすることが出来る。またその後の26節を読むと、そこは「ゲラサ」ということになる。弟子たちは、イエスの言葉を信じる群れである。弟子の中の筆頭はペトロであろう。彼は弟子になる前は漁師を生業としていた。ルカ福音書の5章1~11節には、夜通し漁をしていたが、魚1匹取れなかったこと、けれどもイエスの言葉を信じて「お言葉ですから網を降ろしてみましょう」とペトロは言い、彼らは大漁を経験する。その後、イエスの「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」というイエスの召命の言葉を受け入れ、すべてを捨ててイエスに従ったと記されている。

 弟子たちは、イエスを信じる「群れ」であり、また教会もイエスに導かれる「信仰」・「礼拝共同体」に他ならない。すなわち、どんなときでもイエスを信じるそれが教会の真の姿であるのだが、実際はそうではない。様々な困難が訪れ、押し迫ると、イエスが見えず、神の御心がわからない。そのことは歴史が物語っている。

 イエスはいつでもわたしたちの傍らにおられるはずなのに、嵐に遭遇した弟子たちが狼狽えたように、わたしたちは迫害・弾圧と言う試練が押し寄せると大丈夫とは言えなくなる。嘗て教団は教会を存続、維持させるために、「侵略戦争」に荷担し、「天皇制」を受け入れ、「国家神道は宗教に非ず」とし、植民地の朝鮮、台湾のキリスト者に神社参拝を強要した。ドイツでは、ヒットラーに抵抗したのは、少数のキリスト者、いわゆるバルメン神学宣言を「信仰告白」として告白したが、圧倒的多数のキリスト者はナチスに抵抗出来なかった。「嵐の時」わたしたちは、み言葉に集中し、み言葉に生きる。すなわち「信従」の道を歩まねばならない。最後にルカが引用している詩篇に共に聴き祈りを献げたい。詩篇107・28、29 89・10、46・2、3