【実を結ぶ生き方とは】
 ルカによる福音書8章9~15節


 15日の千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行われた「平和祈祷会」後、第41回許すな「靖国国営化8.15東京集会」に出席した。今年のテーマは、日本軍「慰安婦」制度が問うていることと題して、「女たちの戦争資料館」事務局長渡辺美奈さんから「河野談話」とは、どのような談話なのか、戦争で植民地とした国の女性たちに行った「性暴力」がいかなるものであったのか、69年前、何をしたのか、その事実を率直に受け入れた上で、戦争加害者としての視点も見失うことなく、「未来志向」をしなくてはならないと思った。

 先週わたしは、この「種まきの譬え」で、私たちの人生には、道端、石地、茨の時がある。成長というテーマでこれを読むと、獲得するためには何をするのかという中で、ついつい「選択と集中」という考え方に陥る。全ての土地に種は既に蒔かれている。(わたしはそのように読む)大切なことはわたしたち一人一人が、よい種として実を結び、100倍の種となる。そのためには、祝福を受けて立ち上がったアブラハムたち「族長」の様に、私たちも神の言葉に生きる者として神の招きに答える者でありたい。その時、どのような試練が来ようと、主の御心に生きる者として歩むことができるからだ。

 今日はその続きである。ここではイエスが譬え話を話された後、弟子たちがこの譬えはどのような意味なのかと、イエスに率直に問うている。イエスは、「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。」と言われる。イエスは獄中にいるバプテスマのヨハネが弟子たちをイエスに遣わした問いに対して、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人たちは福音を告げ知らされている」(7・22~23)と答えられる。

 イエスは、「神の国」の福音を民衆に語られ、実践される。そして弟子たちのためではなく、そこにいる民衆に対して譬え話をされる。ここでルカは「頑迷預言」として知られているイザヤ書6章9~10節を引用する。先のヨハネの質問に対してもイザヤ書35章5~6、61章1節を引用している。弟子たちには「神の国」の奥義(秘儀・秘密)を悟ることが許されているが、民衆には譬えで話す。そしてその内容が、11節以下に記されている。それぞれの土地に蒔かれた種は、「み言葉を聞くが」…いろいろな障がいの中で実を結ぶことが出来ないことが語られ、最後に「良い土地に蒔かれた種」が語られる。道端、石地、茨の種は実を結ばない。その違いは何か。み言葉を聞き、よく守り、忍耐する人は、「実を結ぶ」と言う。

 私たちは神の恵みによって、「義」(救われた)とされた者である。けれども、それは人生の最終ゴールではない。それは「聖化」(聖潔)に至る道を歩む助走である。私たちは、ゴールに向かって主が共におられるので走り続けることが出来る。以前「山上の説教」と「ヤコブの手紙」で分かち合ったことを思い起こしてほしい。ヤコブの手紙は、パウロとは違う切り口で信仰を語りかける。「み言葉を行う人になりなさい」1章22節。そして具体的にみ言葉を行う人とはどのような人なのかが語られている。

 イエスに従う道は、安価な恵みに生きる道ではない。その道は険しい。けれども私たちはその道を一人で歩むのではない。どんなときにも主が共におられる。そしてその主は再び「この世に」来られる。私たちは、既にと未だの「中間時」を生きている。その恵みを生きる者として、「み言葉」に聞き、実践するものでありたい。その時、私たちも一方的な神の恵みによって実を結ぶことが出来る。今を生きることができるのである。