【良い地にまかれた種とは】
 ルカによる福音書8章4~8節


 もうすぐ戦後69年目を迎える。わたしたちは、過去の歴史を忘れることなく、「敗戦」ということを真摯に受け止め、「戦後レジームからの脱却」を唱えている現政権を注視して行かねばならない。

 武道家で哲学者の内田 樹氏はレヴィナスの紹介者であるが、「日本はいま、民主制から独裁制に移行しつつある」と鋭く警鐘を鳴らしている。レヴィナスは、ユダヤ人であるがゆえに「反ユダヤ主義」の嵐の中で、リトアニアに残した親族たちのほぼ全員がアウシュヴィッツで殺される。彼は問い続ける「なぜ、自分が生きてあの人たちは死んだのか」。哲学(倫理学)では何も見いだせないと考え、モルデカイ・シュシャーニと言うラビに師事し、教えを乞い「他者とは何か」を問い続ける。わたしたちは、聖書に聴き、生きる者、生かされている者として聖書を読み続けていきたい。

 聖書に生きると言うことは、この世の中にあってキリストの香りを放って生きることでもある。今日の箇所は、4~15節までがひとまとまりになっている種まきの譬えである。ルカはマルコ福音書を下敷きにしていると思われるが、語られた場所などはマルコ・マタイとは異なり、しかもマルコ、マタイを要約して語られている。譬えは日常生活に密着した話しである。

 当時の農夫は無造作に種を蒔き、その後に鍬でその種を埋めた。または種を袋に入れ、穴を開けて動物に背負わせて蒔いた。と言われている。ここに蒔けば豊作というよりも、土地があればどこにでも蒔いた。効率を考えると決して合理的ではない。農夫は道端、石地、茨、そして良い地に種を蒔く、道端、石地、茨に蒔かれた種は「実」を結ばなかった。これを「伝道論」として読めば、よい土地にまかねばならないと言うことになる。すなわち「選択と集中」と言う論理が成り立つが、蒔かれた種がわたしたちの信仰生活を意味していると捉えてこの箇所を読んだ。「こんなはずではなかった」と思う時がある。わたしたちは礼拝で聖書のみ言葉を聴く、説教を聞く。説教者は聖書のメッセージを語ろうと懸命になっている。けれども、優れた賜物の説教者の説教が全ての人を魅了するわけではない。釈義、黙想がなされ、どんなに技巧的に優れた説教であったとしても、一方通行の時もあるのではなかろうか。

 道端、石地、茨、すなわち神の言葉を受け入れられない時がわたしたちにはある。けれども、やがてよい土地に蒔かれた種は実を結ぶ。100倍の実を結ぶ。「祝福」される。「アブラハム物語」からはじまる「族長物語」には、「服従」と「祝福」がセットになっている。すなわち、神の言葉に生きる者は祝福される。イエスは、聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。ある訳では「叫ばれた」とある。

 ドイツ告白教会は、神の言葉に徹底的に生きた。今月の「黎明」にそのことについても触れたので、読んでほしい。彼らは神の言葉に徹底的に従ったゆえに、牧師職を追われ、奪われる。ある人たちは神学者としての職を奪われる。また「殉教」する。人間的に考えれば、長い物に捲かれた方が生きやすい。何も好きこのんで出る杭になることはない。けれども、神の御心に生きる時、今の時代は住みやすくはない。

 預言者は、神の言葉を語る。どんな迫害、弾圧の中でも徹底的に一点を見据え、神の言葉に生きる。イエスはどんなときにも父の御心に生きた。パウロもまたそのような生き方をしている。祝福と言う意味では、ほど遠いと思われるような試練が彼ら/彼女たちを襲う。だからといって萎縮するわけにはいかない。神がわたしたちを祝福して下さっているのだから。