【受け入れる人と拒む人】
ルカによる福音書7章24~28節

 「9条」は変えてはならない。と言う意見の方が今のところ上回っていると思うが、尖閣、竹島などの諸問題、常識を逸脱した国「北朝鮮」という権力者のマスコミを利用したプロパガウンダによって、抑止力は必要という「声」が次第に大きくなることが予想される。だからこそ、わたしたちは踏ん張って踏みとどまらなくてはならない。

 今日の聖書箇所は、18節からの続きである。イエスは「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネよりも偉大なものはいない。」とそこにいた群衆に語りかける。バプテスマのヨハネは、イエスの先駆者であり、最後の預言者に他ならない。ある神学者は、ルカは歴史家である。彼は歴史を救済史と位置づけ、「イスラエルの時」・「イエスの時」・「教会の時」とし、新約聖書の使徒たちが「イエスの時」すなわち「時の中心」を生きているとすれば、わたしたちは、「教会の時」を生きている。

 しかも既にと今だの間である中間時を生きており、この歴史は「来臨」によって「神の国」(支配)は完成する。ここでわたしたちは、この時の徴に食事があるということを忘れてはならない。食事は、交わりを意味する。そしてその交わりに加わる人と、加われない(加わろうとしない)人たちがいる。ホームパーティーを開いたならば、来てほしい人だけに案内状を出す。けれども、世間常識では案内状リストに書かれていない人たちにスポットが当てられている。「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼(バプテスマ)を受け、神の正しさを認めた」とある。ある訳では「収税人たちは、神は解放して下さる方とみとめてヨハネの『沈めの式』を受けたが…」と訳す。私はその訳でこの箇所を読んだ。さて、ここには受け入れる人と拒む人が登場する。すなわち、受け入れる人とは当時の律法では、無資格者と言うレッテルを貼られた人で、バプテスマのヨハネは、ヨルダン川で彼らにも洗礼を授ける。ヨルダン川は、海抜500メートルである。この川は、地球上で最も低い所に流れている。バプテスマのヨハネは、そこでバプテスマを施し、集まって来た人たちに厳しく神の裁きを語り、悔い改めを迫った。

 イエスは、「婚礼ごっこ」しても「葬式ごっこ」をしても、不平を言う人について語る。不平を言うのは、ファリサイ派の人々である。彼らをこのように非難する。「洗礼者ヨハネが来て、パンも食わずぶどう酒も飲まずにいる、あなたがたは「あれは悪霊に取りつかれている」、またイエスに対しては、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ、徴税人や罪人の仲間だと言う」ファリサイ派の人たちの言葉を引用して、彼らを批判する。彼らは、言葉の人であったに違いない。けれども、自分たちの殻を抜け出すようなことは決してしない。自分たちは誠実に生きていると自負していた彼らは、「徴税人、罪人たち」は、神の宴会には招かれていない。と確信していたに違いない。イエスはそのような人たちと共に食事をした。きっと愉快な宴会であったに違いない。苦虫をかみつぶしたような表情の人は、その食事会には一人もいなかったのだろう。

 ファリサイ派の人たちは、バプテスマのヨハネもイエスも受け入れない。すなわち、神の国の徴である「平等の食事」を拒む。1コリント11章にある「ふさわしい者」とは、分かち合うことの出来る人であり、自分の物差しで、相手を排除しない人である。たとえ少数者になっても、わたしたちは他者の痛みに対して敏感で、主が示された道を歩む者でありたい。その徴として「主の食卓」に与ろう。今を生きる者、恵みに生かされている者として。