【後回しにされるいのち?】
申命記10章12~22節

 今日は「部落解放祈りの日」として礼拝を献げている。「寝た子を起こすな」という言い方をする人たちがいる。けれども部落出身者の中には出自を隠して生活している人たちがいる。教団は「日本基督教団部落解放方針」を2000年7月12日に制定した。そこにはこのような文言が記されている。「私たちキリスト者は、主イエス・キリストを通して神から愛されている存在として人間を理解します。人間は誰もが等しく神によって創造され、神の愛により固有の尊厳を与えられた欠け替えのない存在です。この信仰によれば、人間の等しいいのちの価値と平等と尊厳を否定する部落差別は、神の創造の御旨を否定し、被造物としての人間に対するゆるすべからざる冒瀆です。この理解において私たちは、部落差別を単に歴史的、政治的、社会的側面だけでなく、様々な差別や抑圧を生み出す自己の罪に深く関わる問題として捉えます。」と。

 私たちは部落差別をはじめとするあらゆる差別のない社会を目指すと共に私たちの中にある内なる差別を認め、主の赦しを乞うために今、礼拝を献げていることを知らねばならない。福音に生きる者として。

 今日共に分かち合いたい聖書箇所は、申命記10章12~22節である。出エジプトのリーダーモーセは再び十戒を授けられる。そして彼は神を信じる者はどのような生活を送らねばならないのかをここで語っている。17節から読むと、具体的なケアを必要としている人たちのリストが記されている。すなわち、孤児と寡婦そして寄留者である。日本国憲法25条には、1・すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を国に要求できる。2・国は、国民生活のあらゆる面に関して、社会福祉、社会保障、公衆衛生の向上に努力しなければならないと、記されている。先頃最高裁の判決で「外国人に生活保護受給資格なし」の判断が下ったと報道されていた。永住資格を持つ外国人に生活保護上の受給資格があるのかどうかが争われた訴訟の上告審で、最高裁判所第2小法廷は18日、「生活保護法の適用対象は日本国民に限られ、外国人は含まれない」との初判断を示し、受給権を認めた2審の判断を取り消す判決を言い渡した裁判である。ある訳では寄留者を「在留外国人」と訳していた。社会の中で後回しにされる人たちがいる。その人たちを「弱者」ということが出来る。

 聖書は、弱者の保護の必要性を語っている。「犠牲のシステム」ということからすれば、カタカナで地名が記されるところは、皆犠牲のシステムの中にある。すなわちヒロシマ、ナガサキ、ミナマタ、フクシマ。そしてオキナワである。 ヒロシマ、ナガサキは原爆による爆死と被爆であり、ミナマタとフクシマは国策の犠牲ということになる。オキナワは「安保の犠牲」である。そのような人たちが「後回し」にされて良いはずがない。

 アベノミックスで恩恵を私たちは受けているのか、と言えば答えはNOである。午後に予定されているドキュメンタリー映画「SAYAMA みえない手錠がはずされるまで」の石川一雄さんは国策捜査の犠牲者である。獄中生活32年、仮出獄19年、計51年間石川一雄さんは「殺人犯」とされ、「冤罪」を訴える。「不運だったけど不幸ではない!」と言うご夫妻のすてきな言葉がある。だからこそ私たちは彼の再審を今後も支持して行きたい。

 国が富めばそれで良い。と言う「価値観」に対して私たちはNOと言わねばならない。聖書は、後回しされる人たちを保護するようにと命令する。 私たちはこの言葉をどのように読んでいるのかが、問われている。