【私たちの眼・イエスのまなざし】
ルカによる福音書7章36~50節

 わたしたちは偏見という「眼」を持っている。先入観で人を見る。イエスは34節で「徴税人や罪人の仲間だ」と非難されている。イエスの時代、客人を歓待してもてなしたと言われている。当時の食事は、くつろいだ格好で横になって歓談しながら食事をした。その為、家の召使いは客人の手足を洗い、主人は頬と頬とを寄せ親しく挨拶を交わし、召使いは客人の髪に油を塗ったと言われている。イエスにとってファリサイ派は、敵対関係にある場合が多い。

 イエスはここではファリサイ派シモンの家に招かれて食事をしていた時に事件が起こる。それが「罪ある女」の登場である。他の福音書では、受難物語の最初に同じような物語がある。ルカだけが、イエスとこの女性との出会いを違った視点で描いている。(マタイ26章6~13節、マルコ14章3~9節、ヨハネ12章1~8節)

 同じような物語が登場するが、重い皮膚病の人シモンの家で、女性がイエスの頭に油を注ぐ。頭に香油を注ぐという行為は、イエスを「メシア」として告白していることを意味するが、ここでは頭ではなく、足である。ルカだけが違う視点でこの物語を描いている。しかも41節~43節には、譬え話が挿入されている。

 性産業の犠牲者でもある彼女たちを汚らわしき者と言うレッテルを貼って良いのかと、わたしは思う。イエスの時代「罪人」とは、律法に反した行為をする者、先天的な病気、障害を負っている人たち、卑賤な仕事に従事せざるをえない人たちに「罪人」と言うレッテルを貼って差別の対象とした。イエスは、そのような人たちに「神の国」を語り、癒し、奇跡と言う業でそのことを実践された。

 ここでは、一人の女性がイエスによって罪の赦しを与えられている。しかも、41節では、赦しが愛に先行し、47節では、愛の行為が赦しの行為に先行している。イエスはこの女性の行為を評価するが、シモンに対しては、それとはまったく逆なかたちで、何々してくれなかった。とシモンに対して言われている。わたしたちは、このシモンへの批判は何が問題なのか、気づいているだろうか。「もてなし」の心で「客人」を迎え入れると言う意味では、イエスはもてなされてはいない。

 イエスは「多くの罪をゆるされたことは、わたしに示してくれた愛の大きさで分かる。」(49節)「赦されることが少ないものは愛することも少ない。」と言われた。そしてこの女性に語りかける。「あなたの罪は赦された」「あなたの信仰があなたを救った。」果たしてその後、彼女はどうなったのか、分からない。

 小壺に入っていた高価な香油でイエスの足を洗ったが、その香油は、彼女の財産の一部で、痛くも痒くもないものだったのか、それとも全財産であったのかは分からない。 

 イエスは、この女性を見ておられる。シモンに対して「この人を見ないか」と言われる。シモンをはじめとするファリサイ派の人たち、その信奉者たちにとって、このイエスの言葉は、驚き以外の何物でもない。赦しと愛は表裏関係にある。赦されるということは、自分の存在が認められることであり、価値あるものとされるということと無関係ではない。神は50デナリオン(50日分の賃金に相当)、500デナリオンの借金もすべてチャラにして下さる。

 今日私は、わたしたちの眼、イエスのまなざしと言う宣教題をつけた。わたしたちは、偏見で人を見る場合、多かれ少なかれ相手を裁いてしまう。それに対して、イエスはその人をありのままに受け入れ、その人たちに生きる力と勇気をお与えになる。というこの出来事を通して、私たちは何を学ぶのか。