【主に望みをおく人】
イザヤ書40章27~31節

 出来ることなら、わたしたちは「苦しみ」を避けてとおりたい。けれども様々な苦難がわたしたちに迫って来る。その時わたしたちは、どのように祈るのでしょうか。「神さま、この苦難・苦しみから解放して下さい」あるいは「神さま、なぜ、わたしが苦しまねばならないのですか」

 3.11時に津波に流された人たちは、「なぜ、あの人が死に、わたしは助かったのですか?」どうしてという問いは、「神を信じる者」の問いであり、また信じない者の問いでもあります。

 カミュの「ペスト」という作品は、傑作です。そこには、「なぜ、あなたはこんな悲惨なことが起きているのに、あなたは神を信じることが出来るのか」と問います。

 神を信じきって生き抜いたD・ボンヘッファーは、「国家反逆罪」に問われ、投獄されます。クリスチャンであり、神学者であり、牧師であった彼は悩みます。けれども、ヒットラーの暴走を食い止めることがこの世に生きるキリスト者としての証しと捉え、このように言いました。「暴走する車が、歩道に入り、次々と子どもや高齢者をはねているのを見たら、私はボンネットに飛び乗り、その暴走車をくい止める者でありたい。」と言って、彼は、一分の無罪釈放の望みを抱きながら、それは適わず殉教の死を遂げます。

 公民権運動のリーダーであったM・キングもまた銃弾に倒れます。二人のこの世での生きた年月は39歳でした。二人とも生きていれば、もっと大きな役割を果たしたに違いありません。けれども、二人とも走るべき行程を走り尽くして、「主のもとに旅立った」のです。

 讃美歌21の469番は、D・ボンヘッファーの作詞です。獄中で書いた彼の詩が収められています。「善き力に われかこまれ…新しい日を望もう」と一節で歌い、5節では「夜も朝も、いつも神はわれらと共にいます。」 新年を前にして、両親、家族、婚約者、友人、同志たちという「善き力」に囲まれて希望の中で新しい年を迎えることを告げ、そして神から与えられた杯がたとえ苦いものであっても喜んで神のみ手からそれを受け取ろう。そして来たるべき朝を待つと。

 今日共に聴いたイザヤ書40章のみ言葉は、補囚という「苦難」の中にあるイスラエルの人が、その中にあっても希望を失わずに神さまに対する信頼が語られています。

 主に望みをおく人とは、どんな苦難の中にあっても、自分が与えられた使命に生きる人です。イエスは、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ26・39)とゲッセマネで祈られます。

 十字架に架けられるということから逃れることができないことは、イエスさまが一番知っておられたのです。けれども、イエスさまは「できることなら」と言います。すべては神のみ手にあることです。わたしたちはその御心に生きるのです。

 今日は賛美礼拝です。いつもとちがう讃美歌も歌いました。その中に、「みんなで花ぞの作ろう」と言うゴスペルフォークもありました。

 賛美するとは、神さまによって活かされていることを実感し、神さまに感謝することです。神さまに生かされているとは、苦しみが襲いかかってこないことではありません。神さまを信じていようと、信じていまいと苦しみからわたしたちは逃れることは出来ません。けれども、その苦しみを共に担って下さる方がおられます。それが「苦難の僕」(イザヤ書53章)であり、イエスさまに他なりません。イエスさまは十字架に架かってわたしたちの罪を贖って下さいました。ある人は言います。「十字架につけられ給ひしままなるキリスト」は、今もわたしたちすべての苦しみを十字架上で担っておられる。わたしたちはそのことを忘れてはならない。と、わたしたちが主に望みをおくことができるのは、この恵みの中に生きるからだ。すべてのキリスト者は、この恵みの中に活かされている。そのことを日々感謝し、主と共に生きよう!ハレルヤ!