【起きなさい】
ルカによる福音書7章11~17節

 この物語は、ルカのオリジナルであり、ルカはこの後にバプテスマのヨハネが弟子たちをイエスのもとに遣わし「来たるべき方は、あなたでしょうか。」と問うている。ルカはヨハネの弟子の言葉をしっかりと意識し、先取りするかたちでこの物語を書く。

 イエスは、ナザレから南南東9㎞のナインの町に入られる。イエスは百人隊長の僕を言葉の力で癒した直後、この町に入られた。すると、一人息子を失い、失望落胆の淵にいる母親に出会う。彼女は寡婦である。聖書では寡婦は保護の対象であり、特別な衣服をつけ(創世記38章14節)、飾らず、粗末な衣服をまとい、髪を編まず、顔に油を塗らなかった。また申命記10章18節には「孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」とあるように共同体がサポートした。けれども現実の寡婦は厳しい生活を強いられていた。列王記上17章8節~24節には預言者エリアが、神の言葉に生き、主の御心に徹底的に生きた結果、逃亡を余儀なくされ、寡婦の所に身を寄せるエリアが描かれている。エリアは特別な存在である。明らかにこの「エリア」を意識して、ルカ福音書7章11節以下の出来事を取り上げ、彼の筆を通してメッセージを描く。

 ルカが描く寡婦の息子は死んでいて葬式をしている。町の人が大勢そばに付き添っている。まさに葬儀が終わり、遺体を安置するために人々が、棺を担ぎ出す所である。ルカはここでイエスが13節「憐れに思い」という言葉を意識して使っている。自分のはらわたが引きちぎられるように、イエスはこの息子の死を母親同様に受け止めておられる。イエスは棺に手を触れる。この行為は当時の社会通念では自分の身に穢れを引き受けることを意味した。私たちがイメージする棺とは違う。ある人は担架の上に死体を乗せるだけのものと説明していた。イエスは正に死体に触れられた。そして「泣かなくてもいい」と言い、担架に寝かせられている息子に対して「起きなさい」と言われている。すると、息子はイエスの言葉によって起き上がる。このことは復活とは無関係ではないが、ここではそのことには触れることはしない。そこには町の人たちも大勢いたようである。けれども、その人たちにとってこの息子の死は、言葉は不適切であるかもしれないが「他人の死」にほかならない。

 わが家の年賀状の最初に出てくる名前は、私でも連れ合いでもない。一番年上のチビ(猫)が最初に出てくる。チビは、18才で旅立った。人間で言えば90才を超えていた。先に旅立つのは致し方ないが、私はペットロス(悲嘆)の中にいる。イエスは、息子に向かって「起きなさい」と言われた。この言葉は、一人息子を失い、悲嘆のどん底にある母親に向けられている。イエスは、預言者以上の存在だ。私たちを真に慰められるのは、悲しみを癒すのはイエスである。今もイエスの眼差しは死を悼む人に向けられている。奇跡的に生き返ると言うことではない。けれども、悲しむ人たちに対して、悲しみの淵にあるすべての人たちに「泣かなくても良い」と言われる。 遠藤周作が描くイエスは、「無力」である。けれども、いつもいっしょにおられる「同伴者イエス」である。

 イエスは.私たちを常に慰め、導く。そのことをこれからの「主の食卓」に招かれている者として、この食卓にあずかることで、今日与えられたみ言葉「起きなさい」という言葉を心に留め、日々の信仰生活を送る者でありたい。