【目から丸太を取り除け】

ルカによる福音書6章37~42節

 アメリカは99%の貧者と1%の富者の国である。NHKの「クローズアップ現代」で、ショッキングな報道がされた。金持ちが自分たちの為に税金が使われずに、貧しい人たちの為、医療・福祉などに使われていることに疑問を持ち、自分たちで「市」を作った。その結果、近隣の「市」は医療も社会保障も十分になされることなく、公立図書館までが、予算削減のあおりを受けて、閉館時間が短縮され、図書館で勉強していた子どもたちが行き場を失った。番組に出演していた作家の堤 末香さんは、「オバマ政権は、何とかこの1%の枠を拡げるような経済政策を取ろうとしているが、その枠が膨らまない。」これではダメと言う人たちがいる。「アメリカは岐路に立っている」それでは、この「市」の住民は、教会に行かないのであろうか。聖書を読んでいないのか、教会に行かず、聖書を読まないから、自分の事しか考えないと言うことなのか。そうであれば、私たちはその人たちに対して、「伝道」しなくてはならないのだろう。けれども、毎日曜日教会で主日礼拝を献げ、祈ることをその人たちがしているとすれば、果たしてそれはいったいどういうことなのか。問いたくなる。

 週刊金曜日の別刊には「現首相」に対して懸念している人たちの意見、思いが率直に語られている。内田 樹氏は、金持ち優先の社会モデルとして安倍首相はシンガポールの様に規制緩和して、特区を設けて、列強な国を描こうとしている。と云い、また朝日新聞の「憲法特集」では、作家の小林信彦氏が「今この国はどこに行くのか」、少年時代、戦争を体験し、敗戦を迎えた少年が、戦後の新憲法の大切さを語り、「列強国」入りを望む政権の危うさを語る二人のインタビュー記事を読んだ。安倍首相は新宿御苑で自身が主催する桜を見る会で、「給料の上がりし春は 八重桜」と言う自作の俳句を詠んだそうだ。3%上がったことに一喜一憂、戦々恐々としている人たちにとって、春はいつ来るのか、冬をいつまで薄着で過ごさねばならないのか。と言うことが実感されているのではなかろうか。

イエスは弟子たちに教えられる。たとえを持って、この譬えは「格言」である。指導者が無能であれば、穴に落ちる。師に倣うことが弟子の努めである。もう一度37節以下に戻ろう。ここでは「裁くな」「赦しなさい」「与えなさい」と言われる。人を裁けば、裁かれる。人を赦さなければ、自分も赦されることがない。与えなくては、与えられない。分かち合いという言葉が「死語」になってはいけない。共に生きると言うことが「死語」になってはいけない。自分は間違ったことなどするはずがない。自分は人を差別などしたことはない。と言う人たちに対して、イエスは言われる「あなたは、兄弟の目の中にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気がつかないのか」そしてそのような人を厳しい言葉で「偽善者」と言われる。ある聖書では、「大根役者」と訳されていた。

 今日私は、「目から丸太を取り除け」と言う宣教題をつけた。実はこの言葉には主語がないが、主語は「あなたの…」である。私たちの生き方が問われている。あなたは本当に自分の弱さ、醜さを認め、受け入れているのか、自分の物差しで他人を裁いてはいないかどうかという厳しい問いが、ここにはある。

 私たちは、ファリサイ派だとは思ってはいない。けれどももう一度問い直して、この箇所を読んでほしい。そして主の招きの「食卓」に共に集い、自分の目の中にある丸太を取り除いて下さるように共に主に祈ろう。