【良い実と悪い実】

ルカによる福音書6章43~45節

 今日は母の日である。<ののはな>の礼拝では中村晴枝さんがそのことに触れてくれた。TBSの報道番組を見ていたら、「母の日」が取り上げられたが、この起源がキリスト教にある事は、キャスターも分かってはいないようだった。まさに「教会でもクリスマスをお祝いするの?」という現象とも言うべきか。わたし自身は、母とは物心つく前に生き別れているので、母との関係は希薄であり、わたしの母を語ることはできない。

 宣教を準備する中で、ヘンリ・J・M・ナウエンの『母の死と祈り』を読み直した。そこには、死にゆく母を看取ることになる「息子」としての思いが、珠玉の文章で綴られている。死はわたしたちに確実に訪れる。すなわち、私たちは死に向かって生きる存在である。コヘレトの言葉によれば、すべては「空しい」のである。ルカ福音書6章41節と繋げて読むと、良い実を結ぶ者は「偽善者」と呼ばれることのない人のようだ。マタイ7章15~20節では「偽預言者」を見分けることが出来る人が、良い実であると言う文脈で語られている。

 良い実は、良い木に実を結ぶと言う。木はそれぞれその結ぶ実によって良いか悪いかが分かる。茨からいちじくはとれないし、野ばらからぶどうは集められない。この譬えを読む時、わたしたちは先週、共に分かち合ったみ言葉を無視するわけにはいかない。すなわち、「盲人が盲人の道案内をすることはできようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。」(6章39節)イエスは言われる。「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」しかし、それはわたしたちの努力でなすことは出来ない。すなわち「わたしは真のぶどうの木」(ヨハネ15章2節)であるイエスに繋がることなくして、わたしたちは実を結ぶことはできない。

 今日私は「良い実と悪い実」という宣教題をつけた。道徳的な意味ではない。それはイエスに繋がる者として、他者と共に生きる者となることを意味している。わたしたちは、祈る。「どうぞイエスさまがわたしたちに先立って、わたしを導き、お守り下さい。」と、その時、主が共におられる。そして忘れてはならないのは、迷い、戸惑うわたしたちをいつでも、主が導き、支えられると言うことである。ルカが語る15章の「譬え」に代表される「父親」は一見無力である。父親としての権威を振り回すことはしない。息子が生前贈与を望めば、その願いを叶えるような父親である。そればかりか、好き勝手な生活をしたあげく、身を滅ぼし、ボロボロになって、漸く父親の存在に気づくような息子の父親だ。

 けれども、息子が帰る日を願い、両手を拡げて待っている。兄が弟に対する不平をあらわにすると、「死んでいたのに生き返った。いなくなったのに見つかったのだ。」と兄に諭す。皆、神と出会う前は、弟息子である。そのような私たちに恵みに生きる道が与えられる。その道は、一歩たりと私たちの努力、修業で進むことは出来ない。

 自己を絶対化し、他者を排除する限り、私たちは、良い実となることは出来ない。私たちは、他者を裁く、そして私たちの醜さ、弱さをありのままに受け入れることが出来ない。そのことに気づく時、逆説的ではあるが、私たちはその道を歩むことが適う。その意味でナウエンは「小さくされた人たち」と共に歩むことで、その道を歩むことができた人であった。