【神の国はあなたがたのもの】
ルカによる福音書6章20~26節
                                      
 「自由について語ろうとする者は、解放から着手しなければならない。しかし解放を望む者は、何よりもまず深い淵よりの叫びに耳を傾けねばなるまい。飢えている者、捕らえられている者、損なわれている者、障害を負っている者の口から、深い淵よりの叫びが、我々の耳に、我々の心に達している。その彼らのもとに、我々の自由な鍵がある。彼らが自由にされない限りにおいて、我々もまた本当に自由ではない。我々が、彼らに対して、交わりと連帯を拒んでいる限りにおいて、我々自身捕らえられている者なのである。」(j・モルトマン)NHK「こころの時代」で「小さき者に導かれて」という題で高麗博物館の理事で引退牧師の東海林勤さんのインタビュー番組を見た。

 今日の箇所は、「山上の説教」とほぼ同じ内容である。このイエスが説教された言葉がここで語られている。ちなみにマルコは3章13節で、そのことを端的に語っている。けれども、マタイ・ルカのような「説教」のような体裁はなされていない。ルカとマタイでは、明らかに異なっている箇所がある。それは「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」とルカは記されているが、マタイでは「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきた。そこでイエスは口を開き、教えられた。」と書かれている。ルカは山ではなく、平地である。またルカが「貧しい人々は、幸いである」と言うのに対して、マタイは「心の貧しい」と言う。ここで言う貧しさは、「極貧」すなわち乞食を意味する。

 乞食とは下を向いている人と言う意味から生まれたという。そのような明日を思い煩い、ギリギリの生活を強いられている「民衆」に対して、イエスは「神の国はあなたがたのものである。」と言われている。

 神の国とは、神が支配する王国を意味する。そしてその王国は、あの「ノアの箱舟」(創世記9・12~16)以後、「滅ぼすことは決してない」と言われるとおりに、すべての者はその招きに応えるならば、無条件で与えられるものである。

 バプテスマのヨハネは、すべての人たちにヨルダン川でバプテスマを施した。そしてイエスはそのバプテスマ・ヨハネの「神の国」運動を継承するだけではなく、展開する。すべての人は、神さまがお造りになられた者、かけがいの無い大切ないのちというこのメッセージを虐げられた人、「律法」では無資格者というレッテルを貼られた人たちに伝えた。その徴として、癒しの業を実践する。その結果、ある人たち共同体での復帰が適い、またある人たちは生きる勇気が与えられる。

 わたしたちはレントの時を過ごしている。来週は棕櫚の主日である。エルサレム入城はイエスの十字架への道に他ならない。民衆は、「ホサナ…」と言って熱烈にイエスを向かい入れる。しかし、その歓迎は一変して「十字架に付けよ」と言う「声」に豹変する。イエスは子ロバに乗って入城する。馬ではない。

 今、斉藤貴男の『戦争が出来る国』安倍政権の正体という本を読んでいる。「集団的自衛権」を行使できるようにする。と言う議論がなされている中で、この本は難しいが、説得力を持っている。 安倍首相だけではなく様々な政治家のことばも言及されている。パックス・ロマーナーと言う「力」による平和維持であるならば、子ロバは滑稽である。ゼカリア書9章9節の意味を考えながら、この一週間を過ごしたい。神の国はあなたがたのもの その意味を心にとめたい。「深い淵」の中にうごめいている人たちの声に耳を傾ける者として、棕櫚の主日に備えたい。