【ここにはおられない】
ルカによる福音書24章13~27節
                               
 イエスの葬られた墓にやって来た女性たちに天使は告げます。「ここにはおられない」(ルカ24・6)この言葉を彼女たちはどのように受け止めたのでしょうか。さらに「復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころお話しなさったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活されることになっている、と言われたではないか」(ルカ24・8)と言う天使のこの言葉を彼女たちは弟子たちに告げると、弟子たちは戯言としか思わなかったのです。ペトロだけが立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったとあります。

 空の墓を見てペトロはイエスが言われた言葉を思い出すことは出来たのでしょうか。今日はエムサレムから約12キロ離れた場所エマオでの出来事を通して、イエスが復活されたと言うことの意味を共に聖書から聞きたいと思います。エマオへと向かう二人には、復活されたイエスが同伴されていました。けれども二人にはそこにイエスがおられるとは思わなかったのです。一人の名はクレオパと言う人です。彼は言いました。「わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。」(24・20)それから三日が過ぎたと言いました。そこにいた人がイエスだとは気づかずに話し続けたと書かれています。

 イエスが復活した。「墓は空っぽだった」と言うことは、科学的に証明するようなことでは在りません。たとえ復活を科学的に証明しても信じない人には信じられないことだからです。復活という言葉は、「起き上がる」という言葉からうまれました。二人はイエスと食事をするまでわからなかったのです。そして同じように11人の弟子たちもイエスが復活された事を語り合っていたと記されてはいますが、イエスの弟子たちも復活されたイエスを見ても幽霊だとしか思いませんでした。彼らはイエスのその傷跡を見ても半信半疑でした。イエスはそこで食事をされます。漸く弟子たちはイエスが復活された事を信じ、喜んだとルカは語ります。

「ここにはおられない。」それではイエスはどこにおられると聖書は語るのでしょうか。『先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』(マルコ16・7)と、ガリラヤには生活苦にあえぎ、苦しみ、嘆く人たち、病人、障がいを負う者、差別されている人たち、寡婦、生活のために買春を強いられている女性たち、皆「律法」という物差しでは神の国のキップを手に入れることが出来ない人たちというレッテルを貼られた人たちでした。そして「ここにはおられない」と言う声はイエスの十字架から逃げ去った弟子たちにもかけられたのです。彼らはイエスを裏切りました。でも、イエスはその弟子たちを赦されたのです。イエスは今もわたしたちの傍らにおられます。でもわたしたちも様々な障害であのエマオの二人のように見えないのです。イエスはわたしたちと共におられます。わたしたちが困った時、悲しみの淵の中にある時、トンネルの中でもがいている時、イエスは共におられるのです。そのことを信じ、共にイースターをこころから喜び、祝い主の招きの食卓に共に与りましょう。