【立って真ん中へ】
ルカ6章6~11節

 あの未曾有の「3.11」から火曜日で3年が過ぎる。被災地は未だ復興とは云えない。福島第一原発の事故で非難を余儀なくされた人たちは13万人いると言われている。

 帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除区域に分けられるが、避難解除区域に住んでいる人たちは明日の希望すら持てないことが、先日報道されていた。解除準備区域に住む人たちや自主避難をしている人たちの中には生活苦にあえいでいる人たちが大勢いる。あの時の様子を映像で思い出している人もいるが、私も含めて多くの人たちは過去の出来事として受け止めている。この教会はこのことを覚えて被災者のための募金箱を設置し、僅かであっても息の長い支援を続けているが、今なお、故郷を追われている人、様々な不安に苛まれ、帰ることが出来ない人たちが大勢いると言うことを決して忘れてはならない。

 教会暦では、今月の5日の「灰の水曜日」からレントに入った「主の受難」の意味を心にとめ、日々の生活を送りたい。「克己」という言葉は死語になっているのかもしれないが、レントのこの期間この言葉の意味が問われている。

 今日の箇所も先週に引き続きイエスが「安息日」にしてはならぬと考えられた行為を行ったことに対するファリサイ派がイエスを攻撃している箇所である。

 私たちは知らなくてはならないことは、ファリサイ派の人たちや律法学者と言われている人たちは極めて真面目に己を律して生きていた。人に後ろ指を指されることの無いような生活を日々心がけていたのが、ファリサイ派の人たちである。「安息日」にしてはならないこと、それは労働である。安息日規定ではその日、すべてのものを造られた神が、休息された日を覚え、休まねばならないとされていた。むろん例外はある。緊急性のある病気の時には、医療行為が禁じられていたわけではない。

 ルカはその人が萎えていたのは「右手」であると記す。イエスはその人に「その手をのばしなさい」と言われ、「立って、真ん中に進み出なさい」と言う。真ん中に進み出ると言うことは彼にとって勇気がいったに違いない。文学的な表現で言えば、真ん中の反対は片隅である。日陰と言える。当時、病を負うと言うこと事態が共同体の片隅に追いやられることを意味した。何年間この状態が続いたのか期間は書かれてはいないが、人々から白い目で見られると言うことがどれほど彼を苦しめ、つらかったことなのか想像してほしい。

 ここで言われていることは優先順位と言うことである。人に優しい社会はしょうがいのある人たちと共に生きる社会である。それとは逆に人に優しくない社会とは、しょうがいのある人たちを後回しにする社会に他ならない。イエスの眼差しはいつでも、どんな場合でも「小さくされた人々」に注がれる。

 ファリサイ派が「安息日を蔑ろにしている」という批判に対して、イエスは「あなたに尋ねたい。安息日に善を行うことか、悪を行うことか、いのちを救うことか」(ルカ6・9)といい、「安息日に医療行為を行うなんて信じられない」という人たち対して、優先順位はどこにあるのか、と問われている。慢性の病気に属する病をなぜ、イエスが治療行為をされたのか、一言で言えば「その痛み」を自分の痛みとして感じられたのではないだろうか。マルコの「怒り」という記述からそのように読むことは出来ないのか、競争社会の価値観ではイエスの振る舞いは理解出来ない。教会は貧しい人たちを優先させると、カトリックの第二バチカン公会議で決議した。私たちが内向きで歩む礼拝共同体か、それとも外向きの礼拝共同体なのか、どちらなのか。が問われている。