【日曜日の過ごし方】
ルカ6章1~5節                        
 日曜日は「休日」気持ちをリフレッシュして明日からの労働に備える。これが、多くの人たちの日曜日の過ごし方に他ならない。日曜日を「安息日」として大切にするのはクリスチャンだけであろう。 実際日曜日に仕事をしている人たちが大勢いる。その人たちが皆、同時に休めばたちまち、パニックになり、立ちゆかない。日曜日は主が復活された日であるから、特別な日である。今日、聖日厳守、主日礼拝厳守ということを私たちはどのように受け止めるのか、ミッションの福祉施設でも日曜日も開館している所もある。事実「雲柱社」関係の児童館などは、日曜日も開館しており、子どもたちの「居場所」になっている。また病院は365日休むことなく、入院患者を治療し、救急患者を受け入れている。(そうあってほしい。)またケア(介護)を必要としている人たちもいる。日曜日は何が何でも「休み」と定めることは律法主義に陥る危険性がある。

 ここで問題にされているのは、麦の穂を摘むことではない。安息日(当時は土曜日)は労働が禁じられているのに、籾殻を摘む行為が、脱穀に当たるので、「安息日」を大切にするファリサイ派や律法学者の人たちには、到底考えられない。それ故、目の前で行われた弟子たちの行為が看過出来なかったことは理解出来る。「安息日規定」は、出エジプト記20章10節、申命記5章12節に遵守する事が神との繋がりに生きる者にとっては必要不可欠である事が明記されている。

 イエスは、誰もが知っている故事を引いて反論する。それがダビデのした行為に他ならない。ダビデはイスラエルの偉大な王となるが、王になる前彼は、サウル王に妬まれ、いのちを奪われるような状況の中、逃亡を余儀なくされる。空腹のダビデは祭司アヒメレクに祭司しか食べる事が許されていないパンを要求する。(レビ記24章8、9節を参照)サムエル記上21章17節、聖別されたパンを食べることが出来るのは祭司のみに限られていたが、ダビデはそのパンを食べた。

 マルコに書かれているのにマタイとルカには書かれていないイエスの言葉がある。イエスの「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」という言葉は、マタイ・ルカにも記されていない。ルカは「人の子は安息日の主である」と記す。安息日を大切にする。聖日厳守を心がける。ということが「あたりまえ」と考えられ、日曜日の礼拝を守らないことはもってのほか。という考え方に陥る時、私たちは人を裁く。非難する。安息日を守ると言うことが形骸化されるとき、私たちは大きな過ちに陥るのではなかろうか。律法主義は、人を縛り、原理論で人を裁くことがある。

 モーセを通して与えられた「十戒」は、神の恵みによって生きるのであれば、「この戒めを大切にするよね。」というニュアンスで語られているという。「~してはならない」のではなく、「あなたが私と繋がっているならば…そのようなことはないよね」と読むことが出来る。

 恵みが先行するそして日曜日に礼拝を献げるために呼び集められた私たちは礼拝に与る。恵みによってその場に集められていることを感謝し、共に聖書に生きる者として礼拝を献げ、礼拝に与ることが出来なかった仲間を覚えて祈りを共にしていくための礼拝が「今」献げられていることを忘れてはならない。