【イエスの弟子たち】
ルカ6章12~16節
                               
 ここには12人の弟子の名前が記されている。私たちはその弟子たちがどのように仕事を生業(なりわい)としていたのかと問われれば、即座にペトロはガリラヤの漁師であると答えられる。

 またクリスチャンではなくとも知っているのはイスカリオテのユダであろう。このユダをめぐって、近年様々な研究がなされ、ユダとはどのような人物であったのか、いろいろな人たちが説明してくれる。わかっていることはこのユダがイエスを逮捕させ、十字架にかける手助けをし、銀貨30枚でイエスを「引き渡した」(マタイ26・14~15節)と言うことである。12という数字は創世記の35章・49章にある「ヤコブの息子」たちで、それが12部族の起源とされている。

 マルコ福音書を下敷きにして他の共観福音書(マタイ・ルカ)を比べて読むと、マルコでは12人を選ぶ前に弟子の役割が記されている。(マルコ3章10~12節)またマタイでは山上の説教の後に様々な奇跡(病の癒やし)の後に12人が選ばれている。ルカはどうかと言えば、12人を選んだ後に役割が語られている。是非福音書を比べて読んでほしい。ペトロたちのことは同書5章にマタイ(レビ)のことは5章27節に徴税人レビとしてその名が記されている。それ以外の人たちについてはあまり多くは語られてはいない。その他に「熱心党」に属するシモンがいた。「熱心党」とは、国粋主義者、過激派とよばれるような人たちで今で言えば右翼のテロリストである。彼らはモーセの「十戒」の第一戒に従い、神以外の支配者とりわけローマ帝国とその追従者たちに対しては暴力も辞さないという人たちで抵抗を続けた。彼らは貧しく、下層階級に属する人たちである。すなわち、イエスの弟子たちとは漁師・徴税人。熱心党員などである。

 教会には、様々な人たちがいる。教会はむろん政治結社ではない。イエスによって新しい道を示され、聖書を読み、聖書に生きる「群れ」である。イエスが私たちに先立ち導き、祈っていてくれる(12節)ので、私たちはどんな難局も乗り越えることが出来ると信じる「礼拝共同体」「信仰共同体」である。聖書の中で、弟子たちは「使徒」とよばれる特別な存在として位置づけられている。けれども、その中にイエスを「引き渡した」ユダがいることを私たちは確認しておかねばならない。

 町屋新生教会の今は協力牧師の大塩清之助先生はその意味を真摯に問い続けておられる。「主の食卓」である「最後の晩餐」(マルコ14・18~26、マタイ26・21~30、ルカ22・14~23)の席にすなわちユダがいたという事である。

 イエスは、弟子たちを選ばれた。その選びにはある法則性があるのかもしれない。イスラエルの選び(申命記7・7)すなわち、小さくされた者たちから弟子を選ばれたと言うことである。しかもそこには後の教会が裏切り者としてレッテルを貼ったユダがいるという事実。

 教会が、様々な重荷を負い、苦しんでいる人たちの「居場所」・「出会いの場」となる為には、私たちは互いの違いを認め合い、尊重しあいながらそれでもなお、いつも私たちの先に立って共におられ、導いておられる主イエスにすべてを委ね、己の「安心立命」にとどまることなく、「他者のための教会」となるべく、私たちに出来ることは何か、そのことを問い続けながら、レントの期間を過ごし、イエスに従う者として、歩みたい。