【私たちに出来ること】
 ルカ5章17~26節
                                           
 教会は様々な人たちの「居場所」でありたい。地域に密着した禅宗(臨済宗)の寺が長野県松本市にある。僧侶の名は高橋卓志氏である。彼の活動の記録が、『寺よ、変われ』と題して、岩波新書として2009年に出版されている。

 この教会のこれからの歩みを考える上でも大きな示唆が与えられると私は思う。その一文を紹介したい。「寺とは何をする場所なのか」「坊さんとは何をする人なのか」をずっと問い続けてきた。その問いに対して、私は「社会に起きている、あるいは起きようとしている様々な『いのち』にかかわる難問(四苦)にアクセス(接近)する。そしてその難問に対して、支えの本性(利他心)を発動させ、四苦に寄り添いながら、課題の解決を図っていく、という役割を担うのが坊さんであり、その拠点が寺である」という。ここには「地域に仕える教会」とは、「他者のためにある教会とは」何かを考えるヒントがある。片麻痺の自力で動くことが出来ない人が、他人に助けられてイエスのところにやって来る。当時重い病や障害を負っている人は、その障害や病は罪が原因であると見なされていた。ここに登場する片麻痺の男もそのように見なされていたのだろう。

 聖書によれば、中風である。今の医学では神経系の疾患で、介護保険で要介護Ⅲ以上の障がい者と考えられる。その場所には様々な重荷を負っている人たちだけではなく、当時の宗教的指導者や最高議会のメンバーもいた。

 他人に助けられてようやっとイエスの所にやって来たが、ネズミ1匹入ることすら出来ない状態であった。何とかしてイエスのところに連れて行きたいと思っていた4人(マルコには明記)は、一つのアイデアを思いつく。それが屋根の上に上って屋根を剥がし、イエスのいる場所に彼を降ろすということである。そばにいた人たちは、その光景をどのように見たのだろうか。イエスはこの人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われる。そのイエスの言葉に対して、律法学者やファリサイ派が「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことが出来るのか」このことをきっかけにしてイエスとファリサイ派の人たちとの激しい論争が起きる。レビ記16章には、贖罪の為の儀式が懇切丁寧に記されている。その考え方を土台とする者たちにとっては、まさにイエスの行為は「神を冒涜する」行為以外のなにものでもなかった。苦しんでいる人に寄り添われるイエスは、その痛みを自分の痛みとして受け取られるがゆえに律法違反というレッテルを貼られることを知りつつ、その男の苦しみに寄り添われる。

 今日私は、「私たちに出来ること」と言う宣教題をつけさせて戴いた。それはイエスが「彼らの信仰を見て」という所からこの題をつけることにした。四人はこの男を担架に乗せて運んできた。どれくらいの距離を歩いたのだろうか?

 彼らは何とかしてイエスの所に連れて行ってあげたい。そうすれば必ず癒やされるに違いないという確信をしていた。その行為をイエスは「信」(信仰)とよばれた。その結果、この片麻痺に苦しんでいた男は、イエスの言葉によって、新しい生活を開始する。

 ここに教会の姿がある。他者に仕える教会は、他者の痛みに寄り添う感性が望まれているからだ。私たちに出来ることはその人の痛みに共感(共苦)する。そしてイエスの所に連れてくることを厭わないということだ。イエスの言葉によって「起き上がった」その男は神を賛美する。そばに居あわせた人たちは「今日、驚くべきことを見た」という。けれども、その行為を認められなかった人もいた。