【手をのばされると】
 ルカ5章12~16節
 「重い皮膚病」と言う箇所が、田川・本田訳では「らい病」と訳されている。この「らい病」は、今日の医学で言う所の「らい病」ではない。けれども、「重い皮膚病」では、何のことなのかさっぱりわからないと、気仙訳聖書の山浦玄嗣さんは書いていた。旧約聖書民数記5章1~4節では「汚れた者は宿営の外に出しなさい」またレビ記13~14章を読むと、その状態(罹患)になったものは、どの様な扱いをされたのか、そしてその病が治った時にはどの様な「清め」のための儀式を行わねばならないのかが書かれている。 病には違いないが、共同体の中では生活する事が出来ない。

 すなわち、差別と偏見の目で見られていたのが、「重い皮膚病」「腐れ病」(山浦訳)「らい病」と言う病に他ならない。その意味では18年前「らい予防法」(1996年4月1日)が廃止されるまでは、この病がスティグマとなり罹患した人たちは、差別されてきたという歴史を決して忘れてはならないし、聖書が言う「重い皮膚病」もそのような意味ではスティグマとなっていた。

 この病については、ある聖書物語が頭に浮かぶ。それは列王記下8章9~14節である。ナアマンがこの病に罹る。もう一人はヨブである。ヨブもまたこの病に罹っていたと私は読む。ヨブ記3章を読むと、ヨブの孤独、そして筆舌に尽くしがたい悲しみと嘆き・苦しみが伝わってくる。 このように見てくると、これが単なる病ではないことがわかる。

 ルカによる福音書の4章43節「ほかに町にも神の国の福音を告げ知らせねばならない」と言われたイエスの言葉を思い起こしてほしい。場所は定かではないが、ある町にイエスは入られた。そして、ペトロたちを弟子にされた後、イエスの前に現れたのが全身重い皮膚病に罹っていた男である。マルコには、その男に対してイエスがどの様な眼差しを注がれたのかが、そしてどのような行動を取られたのかが、書かれている。ルカではこの人がイエスを見るやいなやひれ伏して懇願する「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」イエスはその男に手を触れられる。

 列王記によれば預言者エリシャはナウマンに手を触れてはいない。この病には祭司が太鼓判を押すまでは、その人は共同体の外へと追いやられる。「律法」では病が癒えるまで誰も手を触れることは出来ない。けれども、イエスはその人の為に「律法」を越えられ、その男に手を触れた。

 ある訳では「手をのばし抱きしめ清められますように」と訳している。イエスはこの男のスティグマを取り除き、ユダヤ社会のルールにしたがつてこの男に命令された。

 すなわち祭司からのお墨付き、太鼓判を押されるまでは彼は共同体に復帰する道を備えられた。その後どのような人生を彼が送ったのかは書かれてはいない。

 イエスの神の国は、「汚れている」と言う共同体がレッテルを貼った人たちが解放される福音に他ならない。ここに教会の姿がある。教会は「貧しい人たち」「小さくされた人たち」(私たちが小さくしてしまった人たち)を抜きにしてなり立つ信仰・礼拝共同体であってはならない。

 私たちはイエスのような感性を身につけたい。「神よ、私にそのような感性を身につけさせて下さい」と、祈りたい。

 福島の南相馬市の市長には桜井勝延氏が再選された。また辺野古移設反対をしている現職の名護市長に稲嶺進氏が再選された。原発に対しても辺野古に対してもNOと言う「声」が民意である事が選挙で明らかにされた。果たして私たちは誰を次の都知事として選ぶのか。自分の痛みのようにその人の苦しみを感じる人はいるのだろうか。各候補者の公約に耳を傾けたい。