【誰が招かれているのか】
ルカによる福音書5章27~32節
 イエスの弟子になったレビの職業は「徴税人」である。彼らはローマの下請けとして間接税(通行税など)を集めていた。この仕事を人々は蔑み、軽蔑していた。すなわち、江戸時代の「長史」(ちようり)等がそれに当たる。差別された彼らはローマから請け負った以上の額を取り立てていた。倍近くの税金をとりたてたと言われている。イエスはそのような男を弟子とした。イエスの弟子たちは決して恵まれた境遇に生きていた人たちではなく、むしろ様々な重荷を負っていた人たちが弟子に選ばれた。イエスはレビに言われた「私に従って来なさい」彼は何もかも捨てて、その場所にすべてを残してイエスに従う。決断の証しとして彼は、自分の家で盛大なパーティーを催す。

 そこにはファリサイ派の人たちだけではなく、徴税人や罪人と言うレッテルを貼られた人たちがいた。憤慨したファリサイ派の人たちはぶつぶつと文句を言い出す。「なぜ、おまえたちは収税人や道を踏み外した者といっしょに飲み食いをするのか」(本田哲郎訳)それに対して、イエスは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めるためである。」他の共観福音書であるマルコ・マタイには「悔い改める」という言葉はない。 ルカは「悔い改める」と言う言葉をなぜ、ここで記しているのか。改心・回心という言葉のニュアンスは、悪いことをした人が心を入れ替えることであると思われるが、その答えのヒントが29節にある。すなわち、イエスの招きに応答して弟子となったレビは、罪人(律法を守れない、守ることが出来ない人々)と見なされる人たちも招待する。それがどのようなことを意味しているのか、といえば今までの生き方とは違う生き方を歩むと言うことに他ならない。

 私たちは、あの「富める青年」(マルコ10章22 節)のような反応をする。すなわち、自分の所有物は絶対に手放さない。けれども、徴税人レビもその頭であったザーカイもイエスに出会うことで、生き方が180度変えられる。

 今日礼拝後に全体協議会が行われる。この教会にとってはターニングポイントとなるかもしれない。今まで三者(教会・黎明・法人)のマスタープラン、責任役員・役員、社会福祉法人雲柱社との話し合い、それを受けての役員会の話し合いで、三案に纏めた。すなわち、①黎明保育園の建て替えには反対しないが、教会堂は壊さずに残して、園舎を建て替えて戴く。②黎明保育園との関係を更に構築して、別の場所に教会堂を建てる。③建て替え計画に参画し、園舎に併設して教会堂を建てる。どの案が、神様の御心なのか、みんなで話し合う。教会は建物ではない。けれども建物を無視したかたちで「居場所論」は展開できない。イエスの振る舞いをどのように受け止めるのか。世間からつまはじきにされた人たちの「居場所」となるには、どのような教会像を描くのか、ファリサイ派の人たちが満足するようなビジョンであってはならない。「格差社会」が益々拡がり、介護の世界でも公助・共助・自助とは別の「助」として新たに近助と言う言葉が使われようとしている。

 戦前の隣組が新たに作られようとしている。そこには排他性(一つの考え方にまとまる空気、画一化)を生じる可能性(村八分)が否めない。教会を必要としている人たちの門戸が開かれる教会像が話し合われることを願う。「地域に仕える教会」として、どのように歩むのか、活発な意見交換が望まれる。礼拝後の全体協議会が、主の導きの中にある事を祈りたい。