【さあ、ベツレヘムに行こう】 
クリスマス合同礼拝
ミカ書5・1~3、ルカ福音書2・1~20節                

 今、すてきな切り絵の絵本を通して、世界ではじめのクリスマスの光景に思いをはせることが出来た。ルカ福音書は、神の祝福が一番ほど遠い人たちからもたらされることを、不妊で高齢であるエリサベトとそのパートナー ザカリア、そしてマリア賛歌へと続いていく。イエスの受胎を告知されたマリアは戸惑いながらも有名なマリア賛歌(マグニフィーカート)を唱え、その子を産む決心をする。私たちはそのいきさつを聖書を通して知らされているが、当時の人たちはその「出来事」を知るすべもなく、彼女とパートナーのヨセフはすべて神に委ね受け入れる。しかし宿屋には泊まる場所はなく、家畜小屋での出産を余儀なくされる。ルカは「救い主」誕生の知らせが卑賤と人々が考えていた羊飼いたちに天使を通して告げられ、やがてその天使に大軍が加わり、壮大なシンフォニーを奏でる如く、その誕生のよろこびの知らせが羊飼いたちに告げられる。羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせて下さったその出来事を見ようではないか」と話し合い、イエスの誕生に駆けつける。イエスに出会った羊飼いたちはその知らせを最初に告げるものとなる。

 世界ではじめのクリスマスを祝うためにやって来たのは羊飼いたち、そして東方から星に導かれてやって来た占星術師たちである。占星術師は自分にとって一番大切な宝物を「飼い葉桶」に寝かせられているイエスに献げる。(マタイ福音書2・11)イエスの誕生はヘロデ王にもエルサレムの人々にも知らされず、羊飼いたち、そして東方から星に導かれてやって来た占星術師に知らされたと言うことは偶然ではない。しかも彼らは「夜」にこの知らせが告げられたと言うことも偶然ではない。そこには神の偉大なドラマがある。光と闇、朝と夜が言い表しているものにわたしは意味を見いだす。イエスが産まれた時代、民衆は貧困の中で喘ぎ、ローマが課した重税に苦しんでいた。しかも先天的な障がいを負う者たち、穢れた病に取り憑かれている者たち、律法という物差しで照らし合わせて律法を遵守していない、蔑ろにしているとレッテルを貼られたすべての人たちは、異邦人同様「無資格者」と見なされていた。羊飼いたちも占星術師もそしてエリサベトもイエスの母マリアも同じように見なされたのではなかろうか。ベツレヘムと言う場所は、農業に適した肥沃な土地で、ダビデの父エッサイならびにその祖先の地であり、ダビデの故郷となり、メシアの誕生の地(ミカ5・1)である。

 私たちにとって、ベツレヘムとは何処を指すのか、そこに救い主がおられる。そのしるしは、飼い葉桶に寝かせられている「赤ん坊」である。人々から見向きもされず、イエスは誕生される。国内外を問わず、不安な出来事が私たちの周りを取り巻いている。格差は拡がり、富は一部の人たちに集中している。そのような中で、私たちは生かされている。今日私たちは羊飼いと共に「さあ、ベツレヘムに行こう」と言う言葉をきいた。神はこの福音を羊飼いたちにそして聖書を通して私たちに告げられた。私たちがイエスの誕生を心から祝うと言うことは、この世に来られた救い主の誕生を祝うことであるが、その祝う者たちは、羊飼いと共に行動する。そしてその出来事を人々に伝える。すなわち神の御心に生きる道を私たちが聖霊の導きによってあかしすることに他ならない。