【わたしはガブリエル】
ゼファニア書3・14~18
ルカ福音書1・5~25                        
 
 史上最年少でマララ・ユスフザイ(17歳)さんとインドの児童労働活動家カイラシュ・サティヤルティさんがノーベル平和賞を受賞した。彼女の演説は世界中の人々に感動を与えた。率直で自然体で女子教育の必要性を訴え、そして平和について語った。「平和は簡単な言葉ですが、実現するためには、正義、忍耐、寛容、愛、友情が必要です」また「なぜ、戦車を作るお金があるのに、学校を作るお金はないの」という言葉も彼女の置かれている状況を見事に言い表していると受け止めたのはわたしだけではあるまい。彼女の願いが受け入れられ、いつの日か彼女がパキスタンの首相となり、すべての人が教育を受けることが出来る日が一日も早く訪れることを願わずにはおられない。

 今日はアドベント第三主日として礼拝が献げられている。ここに一人の女性が登場する。その名をエリサベト(神は豊穣、幸い)彼女には大きな悩み、痛みがあった。それはパートナー ザカリヤ(ヤーウェ 覚えて下さった)も同様である。彼は神殿に仕える祭司であった。この当時子どもは祝福のしるしに他ならない。だから子どもが産まれないと言うことは、祝福を受けていないことを意味した。彼が神殿で祭儀を行っていたとき、天使が現れ「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その名をヨハネと名付けなさい。」そして天使の言葉通り、高齢で不妊の女性であったエリサベトは妊娠し、ヨハネの母となる。「恐れるな」この言葉は野宿しながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちにも「救い主」誕生の知らせを告げる言葉(ルカ2・10)の劈頭で語られている。ザカリアとエリサベト、羊飼いたちに共通しているのは、謙遜である。しかしこの言葉は「もたざる人々」の言葉から派生した言葉で、「心砕かれた人々」(詩編37・11~16)が謙遜と言う言葉の語源であるという。そしてその人たちは、神の御心に生きる人々であり、神の正義と公平を大切にした神との繋がりに生きる人である。旧約聖書ゼファニア書は、厳しい言葉で裁きについて語る。偶像崇拝と不正である。そして「主の日」を語る。すなわち、裁きと再生である。

 ゼファニア書にしるされた「主の日」それは神の独り子イエス・キリストの受肉によって訪れると読むことが出来る。イエスは「神の国」(神の支配)が近づいた。と語り、差別され、律法(神の掟)と言う物差しでは決して「神の国」に入る資格はないと言うレッテルを貼られた人々に告げられた。

 私たちの評価は出来ると言うことが評価の対象となっている。エリートと呼ばれる人々は「出来る人」であろう。しかし神は自分の顔を上に向けて歩くことすら出来ない人たちに先ず、神の眼は注がれる。高齢出産のエリサベトとザカリアにそしてマリア、そして羊飼いたちに。にわかに天使の言葉を信じることが出来ず、彼は長男ヨハネが誕生するまで、声を発することが出来なかったとザカリアに向かって天使は言う。その天使こそ、ガブリエル(神の人)に他ならない。神は神の前にまっすぐに生きる人、神の正義と公平を生きる人たちを祝福される。その物差しは世間が言う「出来る人」ではない。この日私たちは、神の前に生きるものとして、自分を省みると共に、主は望みなき者を祝福されることを信じ、「主の日」を待ち望みつつ、主のご降誕を心から祝いたいものである。