【世界宣教の日・世界聖餐日を思う】
ルカによる福音書8章40~56節

 教団行事暦では、10月の第一主日を「世界宣教の日」・「世界聖餐日」と定めている。現在教団派遣宣教師として、アジア(インド・マレーシア・シンガポール・フィリピン・台湾・韓国)北アメリカ(米国・カナダ)南アメリカ(ブラジル)ヨーロッパ(ベルギー・ドイツ・チェコ)で計22名が奉仕している。以前この教会で宣教をお願いしたことがある木原葉子牧師は、カナダ合同教会ギルモアパーク合同教会で2年前からは、教会教育、社会奉仕担当牧師として奉仕されている。今月号の「福音と世界」には、永住権を取得し、カナダの地で何を考え、どのような日常を送っているのかを踏まえたレポートがされている。またブラジルでは貧しい人々からうまれた「解放の神学」を土台に小井沼真砂子牧師が2,009年より活動している。私たちは、これらの宣教師の働きを覚え、世界宣教の日として今日礼拝を献げている。

 また今日は、世界聖餐日でもある。『礼拝と音楽』№162号は、「主の晩餐」という特集であるが、その中にエーカリストの歌-豊かさを味わうと言う文章がある。水野隆一氏(関西学院大学神学部教師)は、「世界聖餐日]にと指定されている「賜物と歌を」375番はカリブの民謡、「人の知恵と言葉を超えて」376番はフィリピンの民謡を曲としている。この日の主題は、一致と証しであるが、それは、どちらの歌でも歌われている。」と、二つの曲とも、聖餐(主の食卓)をどのように捉えているのかが、わかるのではないかと思う。

 聖餐式の「式文」にはコリント11章17節以下に「ふさわしいままで」という言葉が記されている。パウロの「ふさわしくないままで」とは、道徳的な意味ではない。18節以下の文脈を無視することは出来ない。パウロは、次のようにいう。「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいると言う始末だからです。あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。…」そこには、貧しい人たちを蔑ろにしても心痛めない金持ちへの痛烈な批判が書かれている。

 教会は、主によって呼び集められた「信仰」「礼拝」共同体である。そこには、本来様々な人たちが集う筈である。貧しい人々、富める人々…しかしこの共同体は、主にある共同体(協働態)である事を決して忘れてはならない。そしてその共同体は、12章26節にあるように「共に苦しむことが出来る共同体に他ならない。世界に眼を向けるならば、国内外で多くの人たちが苦しんでいる。日本でも格差が拡がり、正規雇用、非正規雇用などの「労働格差」だけではなく、こどもの貧困がクローズアップされている。また先日はテレビで、「老人の貧困」が取り上げられていた。貧しい人々が、ますます貧しくなる現実を私たちは知らねばならない。

 世界宣教の日・世界聖餐日は、カトリックとプロテスタントの一致を願うエキュメニカル運動からはじまった。けれども、私たちは一致を願うためにこの日を守るだけではなく、現代社会を見据えて、イエスが何を弟子たちに示し、聖書を通して神さまは私たちに何を語ろうとされているのか、を考える時としたい。その意味で、讃美歌21に収められている「世界聖餐日」の讃美歌が、いずれもヨーロッパでうまれたのではない。と言うことを決して忘れることなく、この教団行事暦を守りたい。そしてこの10月の行事暦を過ごすと共に、31日の「宗教改革記念日」を迎えたい。