【治療と癒やし】
 ルカ4章38~41節                         

 年末にBS民放5局共同 年末年始特別番組『ニッポン百年物語』~医学の100年~「日本人はなぜ長寿になったのか」を見た。100年前は、男性44.25歳、女性44.73歳だった平均寿命が今では、女性86.41歳、男性79.94歳の長寿国ニッポンとなる。戦前は感染症、戦後はめざましいガン治療によって、飛躍的に平均寿命が伸びたことが放映されていた。

 102歳の現役医師である日野原重明先生の元気な姿が映し出されていた。多くの著作で知られる先生だが、その先生が師と仰ぐ医師がウイリアム・オスラーである。近代医学の父とされるアメリカの臨床医オスラーは、医学生たちに「病気を診るのではなく、病人を診ろ」と言った。またウイリアム・オスラーの言葉「我々は患者と共に学びをはじめ、患者と共に学びをつづけ、患者と共に学びをおえる」が、聖路加国際病院に飾られている。 多くの人たちが病を抱えて生活している。

 今では、「多病息災」であっても、医学の進歩によって健康が保たれている。しかしある人たちは、病に苦しみ、不安の中で病と闘っている。若くして「難病」に罹った女性が『困っている人』という本を書いて話題になった。病気のため、自分が描いた人生設計がままならない。けれども、病気と共に生きるとはどのようなことなのか、が率直に語られている本である。不治の病に罹ると言うことは望ましいことではないが、罹ったときに私たちの生き方が問われるのだろうと思う。

 マルコでは、「私に従って来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言う言葉に応答した後、イエスはペトロのしゅうとめを癒されたと記すが、ルカではその出来事の後に彼はイエスの招きに応えたとされている。そして、その後、安息日が明けると、多くの人たちがイエスの所に病人を連れてきた。そしてイエスは1人ひとりに手を置いて癒したと記している。安息日前には汚れた霊に苦しむ男、熱病に苦しむシモンのしゅうとめを言葉によって病から解放するが、安息日後は、1人ひとりに手を置かれた。この「手を置く」ということに少し注目してみたい。J.Dクロッサンは、 「イエスは疾病を治療するのではなく、病を癒されたのが、イエスである」という。

 病とは、その人を苦しめている現実である。日野原重明先生が師と仰ぐオスラーは、疾病を治療するだけではなく、病を癒す医師に他ならなかった。「全人医療」という言葉がある。単に疾病を治療するのではなく、トータルに診察し、その人のニーズを把握し、苦しみに共感し、その結果病が癒えるのである。すなわち、病から解放されるのである。私たちは、この違いに気づいているだろうか。

 教会は癒しの共同体でもある。本田哲郎神父は、原語の (セラペウオー)からそのことを説明し、この言葉が奉仕という言葉と結びついていることに注目する。イエスは超自然的な病気を治療されたと言うよりも、その人の苦しみの本質を見抜かれ、病を癒し、苦しみから解放する。教会が「癒しの共同体」であるというのはその意味に他ならない。

 今日私は、「治療と癒やし」という同義語と思われるような宣教題をつけたが、なぜ、そのような題をつけたのか、これからたくさん登場するイエスに癒しを求めてやって来た人たちにイエスは「手当て」された。その人たちの病(社会的不利益、差別、痛みから)から解放された事に注目していきたい。