【権威と力をもって】
ルカによる福音書4・31~37節                     

 この箇所はマルコ福音書(マルコ1・21~28)が下敷きになっている。比較して読むと、マルコではガリラヤ伝道の開始、そして4人の弟子の選びがあり、その後に「汚れた霊にとりつかれた男をいやす」へと続く。又マルコでは、律法学者たちのようにではなく、権威ある…」となっているが、ルカでは「律法学者」という言葉は省かれている。ルカは、荒野の誘惑、ガリラヤで伝道開始後、故郷ナザレでの拒否、そのすぐ後にこの奇跡物語へと続く。注意して読むと、イエスがイザヤ書の61章1・2節等を読まれたことが記されている。

 ルカは、ここでイエスとはどの様なお方なのかを、はっきりさせる。それは貧しい人々に福音を告げる方として、イエスが描かれているからである。私たちは「イエスの生涯」を考える時、このルカが語るメッセージを聞き逃してはならない。ルカは、イエスの出自ゆえに「預言者は自分の故郷では歓迎されない」(4・24)といわれたので、ガリラヤのカファルナウムに行かれたと記している。

 この場所をイエスは宣教の根拠地とされている。イエスは安息日に教えておられた。その教えは「誰も刃向かえないようなのびのびとした力と勢いがあったから、皆はその教えに舌を巻いて感服していたものでござった。」と山浦さんは『ガリラヤのイェシュー』で意訳している。すなわち、人々は権威ある教えに驚いたのだ。しかし、それで終わらない。その場所に汚れた霊に取りつかれた男が現れ、大声で叫び「神の聖者」だという。ここには最初の奇跡が記されている。今でいえば、その病気はどの様な病名となるのだろう。古代ではすべての災いは悪魔(神に敵対する者)から来ると考えられていたので、この男は汚れた霊が取りついているという。その男は、イエスに向かって「かまわないでくれ」という。しかし、イエスはこの男に向かって「黙れ、この人から出て行け」といわれる。ここに教会の姿があるのではないのか。

 教会は、「かまわないでくれ」と関係を拒否する者であっても、その人の苦しみを見捨ててはならないのだと思う。しかも、見返りを求めないのである。この男の人がどうなったのか、記してはいない。ボランテイアという言葉がある。今では、有償という言葉がその前につくこともある。元来、ボランテイアは主体的に自主性を持ち責任を持って関わる人をいう。

 ある人がこのようなことを言われたのを思い起こす。「報酬を求めないということは、感謝されることを前提としないということである」厳しい言葉である。けれども、的を得ているのではないのか、その人の苦しみに寄り添う姿勢が大切であるということだろう。イエスはここで権威ある言葉を語られる。しかし、それにとどまらない。そこには苦しむ人がいる。その人の苦しみを「自分の痛みのように感じる感性」すなわち、共苦(コンパッション)した結果、彼はその問題(悪魔)に正面から対決し、勝利される。イエスの教えには苦しむ人の苦しみを受け止める「現場」がある。真の権威とは、学説を振り交わすことではない。作家井上ひさしさんが「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」と言っている。権威ある言葉とは、苦しむ人とともに生き、そこから発せられる言葉なのではないかと自戒する日々である。