【どうすればよいのですか】
ルカによる福音書3章7~14節                         

 マタイとルカ福音書を読み比べると、マタイでは、ファリサイ派やサドカイ派の人々がバプテスマを授けてもらうために、ヨハネのもとを訪れたのに対して、ルカは「群衆が」と記している。ヨハネは彼らに向かって厳しい説教をする。「蝮の子よ、差し迫った神の怒りから免れると、だれが教えたのか」「悔い改めにふさわしい実を結べ。」

 バプテスマ(洗礼)を受けにやってきた人々は、この言葉に衝撃を受けたに違いない。しかも、さらに言葉は続く「我々の父はアブラハムだ」などと思うな。神はこんな石ころからでもアブラハムを起こすことがおできになる。」「斧は既に木の根元に置かれているよい実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」この言葉は、わたしたちにもかけられている言葉である。

 キリスト者であるからと言って、安心するな。という言葉が私たちにもかけられている。ヨハネの言葉に対して、群衆は「では、わたしたちはどうすればよいのですか」それに対して、ヨハネは答える。「下着を二枚持っている者は、一枚も持っていない者に分けてやれ、食べ物を持っている者も同じようにせよ」 これは旧約聖書(イザヤ章58章7節)新約聖書(Ⅱコリント信徒への手紙8章14節、ヤコブの手紙2章15~16節など)で語られている信仰者の在り方に他ならない。ヤコブの手紙を読むと、信仰に生きるとはどのようなことを意味するのかがわかる。聖書がわたしたちに語るメッセージである「悔い改め」とは、「自我」が解放され、他者のために生きることを意味している。自分の幸福のみを追求し、幸福の青い鳥探しで終始する。己の「安心立命」で満足することで良いのかが問われている。

 徴税人が次にヨハネのもとをおとずれる。彼らは売国奴というレッテルを貼られていた。当時、税には直接税(人頭税・土地)宗教税、間接税がある。直接税とは、住民台帳に従って、徴収される。ルカ2章の冒頭にそのことが書かれていた。支配者は、いつの世も税金を搾り取り、国の力を強固なものにする。ここでヨハネが、徴税人に対して「規定以上の者を取り立てるな」とは、具体的には、道路や橋の通行税、市場に出される商品税、あるいは町から運ばれる品物税などが含まれる。この税は、領主であったヘロデ・アンティパスにおさめられた。

 徴税人は、植民地の領主の手下として、税を徴収するだけではなく、私服を肥やしたため、忌避される存在とみなされ、差別された。江戸時代の「長史」がこれに当たる。ルカはそのような救いを、19章徴税人ザアカイの物語として語っている。最後に登場するのが、兵士である。この兵士は、領主ヘロデ・アンティパスにいる兵士であろう。

 これらの人たちのある言葉に注目してほしい。それが、「どうすればよいのか」という意味の言葉である。神の裁きの前に人は立たされる。そのとき、わたしたちの生き方が問われている。神の御前に生きるとは、どのようなことなのか。 自分の都合で神に頼る生き方は、神という作業仮説(D・ボンヘッファー )に生きること、すなわち、御利益を求めて生きることに他ならない。わたしたちに求められているのは、他者のために生きることである。

 先週は、22日に行われる。園舎建て替えに伴う三者の話し合いのための準備に大半の時間がとられた。これからわたしたちが宣教のかたちは、他者のために共に生きる教会であり、礼拝共同体に他ならない。「どうしたらよいのですか」この問いに対して、わたしたちはどのように答えるのだろうか。これから先駆者ヨハネを経て、イエスの宣教に入るが、そのことを共に考えよう。