【聖霊と火で】
ルカによる福音書3章15~20節                    

 「私が安全を保証します。状況はコントロールされています」「汚染水は福島第一原発の0.3平方キロメートルの港湾内に完全にブロックされている」「健康に対する問題はない。今までも、現在も、これからもない」 とIOC最後のプレゼンで安倍首相は抗弁し、2020年東京オリンピックが開催されることになった。

  内田 樹や、やくみつる氏などの疑問の声を「朝日新聞」は伝えているが、マスコミは三兆円以上の収益が望まれると報道している。被災地の復興が立ち後れ、第一原発事故の汚染水問題を考えると、2020年「東京開催」を諸手を挙げてよかったとは私は思えない。そのような率直な感想が言えないような「空気」がこれから先、強められることを懸念する。預言者は神の言葉と神の正義に生き、権力者に阿ることは決してなかった。バプテスマのヨハネもまたそのような生き方をした。

 15節を読むと、「民衆はメシアを待ち望んでいた」と記されている。この15節の「民衆」と7節の「群衆」をルカは、別の人たちとみなしているようにも思える。メシアを待ち望むと言う背後には、何が意味されるのか、政治的な不安定さ、社会的な不安、様々なことが考えられるが、民衆はダビデのような王の存在を強く待ち望んでいたと言える。そのような「民衆」に対して、ヨハネは「自分はメシアではない」彼はいう。「わたしはあなた方に水でバプテスマを授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない」続けて「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼を授けられる」

 水による「バプテスマ(洗礼)」、これはクリスチャン誰もが経験したことである。しかし、聖霊と火との洗礼はどうであろうか。いったいそのことは何を意味するのか。これは物質的な「火」ではなく、聖霊のかたどり(使徒言行録2章3節)であり、火が鉄を溶かして精錬するように(イザヤ書48章10節、エレミヤ書6章29節)聖霊は人の心を熟して清くする(エゼキエル書22章17~22節、詩篇66編10節)とするなら、裁きがセットになっていることになる。そしてそのことが、17節以下の農夫の脱穀へと繋がる。

 ヨハネは如何なる時でも「裁き」を語る。その彼の言葉は、「略奪愛」をした為政者であるヘロデに対して「あなたは律法を破った。」(レビ記18章16節、20章21節)とヨハネは容赦なくヘロデを断罪する。その結果、彼はヘロデ(アンティパス)によって処刑される。

 愛の神であるイエスからは、「裁き」という言葉は不適切ではないのか、という疑問が沸いてくる。しかし、マタイ25章40節の「私にしてくれたことなのである」のみ言葉によれば、そして終末論的に考えるならば、主は裁かれる。その目安は、「他者のために生きる」ことに他ならない。神の前にわたしたちも立たされる。そのとき、わたしたちがどう生きているかが問われる。

 聖霊と火でわたしたちにバプテスマを授けられた方によって、わたしたちは生かされている。その聖霊は、教会を通して働く。そのことをわたしたちは、ペンテコステの「出来事」(使徒言行録2章)として知っている。水によるバプテスマ「洗礼」にとどまるのであれば、それは、D・ボンヘッファーによれば「安価な恵みに生きる」ことになるかもしれない。わたしたちひとりひとりが、そして教会が問われている。それで良いのか「高価な恵み」に生きなくてよいのかと。水による洗礼から、火のバプテスマを受けて、それぞれが遣わされている場で復活の主の証人として生きよう。祈りつつ、正義を行う者として。