【準   備】
 ルカによる福音書3章1~7 節                   

 東京、神奈川(横浜)を襲い死者・行方不明者が10万人を越え、被災者が340万人以上という甚大な被害をもたらした「関東大震災」から、90年が過ぎた。賀川豊彦が関東大震災の被災者の救援活動を必死に行った事は、神戸の葺合新川での働きを通しても評価されるべきである。

 しかし、賀川をはじめとする様々な救援活動の中で、「在日朝鮮人」「中国人」が、「井戸に毒を入れた」と言う流言で、自警団によって「虐殺」されたと云う事実を忘れてはならない。 確かな数はわからないが、双方で6千人以上の人たちがいる。羽田、四つ木、亀戸、上野などで1400余人の同胞たちが朝鮮人というたったひとつの理由で無残に殺された。

 賀川がどれだけ彼らに対して、どのようなまなざしを持って関わったのかわからない。けれども、「貧民心理の研究」を読む限り、賀川の目には、彼らは視野の外にあったのかもしれない。

 賀
川豊彦(1888年(明治 21年)よりも、47歳年上であった田中正造(没後100年)は、近代化の中で犠牲となった人々に対して、身を挺して彼らと行動をした。遺品は信玄袋に入った「新約聖書、大日本帝国憲法とマタイ伝をつづり合わせた合本、日記帳三冊、河川調査の草稿、鼻紙数枚と川海苔、それに小石が三個」のみであった。彼は、内村鑑三や新井奧遂を通して、キリスト教に触れ、信仰に導かれたといわれている。

 田中正造研究の第一人者である小松 裕氏が「正造とアジア」-朝鮮観を中心に-という文章の最後を次のように結ぶ。「彼は朝鮮を見るときいつも、足尾銅山鉱毒事件の被害者や、鉱毒問題の解決のために遊水池にされようとしていた谷中村民の立場に立っていた。」 

 キリスト者とは、キリストを証しする者、キリストに倣う者である。ルカによる福音書2章41~52節の12歳のイエスについてのことは、後日分かち合いたいと考え、変則的であるが、3章1~6節を学ぶことにする。ここには、歴史上の権力者が列挙されている。

 但し、ストレートにこれを歴史として受け止めることは出来ない。この記述に従えば、イエスはA.D.30年に殺されたとされ、イエスの公生涯は2年足らずだったと考えられるからだ。ここに登場する人たちは、いずれも権力者である。ルカは、このような時代の中で、イエスの先駆者であるヨハネは、ヨルダン川でバプテスマ運動を展開したと述べる。ヨハネは、イエスの先駆者として荒野で呼ばわる声となる。イザヤ書40章3~5節を読むと、彼のメッセージが響くようだ。彼の身なりをマルコは、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」(マルコ福音書1章5~6節)と述べている。

 新約聖書では、ヨハネはエリアの再来と印象づけている。預言者として、彼が書いたものは残されてはいないようだ。徹底的に神と繋がり、時の権力に対しても「否」を言いつづけた、それがエリヤである。バプテスマのヨハネの誕生を巡る一連の出来事を通して、彼は神に選ばれた人であるが、当時の権力者は、やがて彼を捕縛し、彼は権力者によって慙死(首を切られる)する。

 この過激な預言者ヨハネから、イエスはバプテスマを受けられる。その意味を私たちはどのように受け止めるのか、「準備」という宣教題をつけたが、なぜと思われる方々も多いのではなかろうか。そのことは、私たちひとりひとりが聖書からくみ取っていかねばならない。