【居場所を捜し倦ねて】
ルカよる福音書2章1~7節


 介護保険の見直しで、要支援であった人たちは、従来の介護保険とは別のサービスを受けることが検討されている。と言う記事が、昨日の朝日新聞の一面に掲載されていた。国・地方自治体の財政が逼迫するなかで、「弱者」と言われる人たちの切り捨てがますます顕著になろうとしている。 99%の貧者と1%の富者の国アメリカ。日本にTPPが導入されると、今後どのようなことが日本に起きるのかが『株式会社貧困アメリカ』を読むとわかる。

 ガリラヤの町ナザレから、ヨセフの生まれ故郷のベツレヘムで初子を生むためにマリアはやってきたのに、泊まる場所がなくて、「家畜小屋」でイエスを出産する。ここには、奇跡は語られていない。住民登録が行われた正確な時期が不明であること、キリニウスがシリアの総督になった時期、ヘロデが統治した時などからすると、歴史的事実としてこれを受け止めることは難しい。これは事実です。と言い表すためにルカはこの様に記した。住民登録の目的は、ローマ皇帝へ税金を納めるためになされた。 あの気仙訳で有名になった山浦玄嗣さんが『ガリラヤのイェシュー』という方言と幕末期の日本語を駆使した聖書の翻訳がある。彼は少しコメントを加えながら訳している。

 ヨセフとマリアは、人口調査、住民登録のためにヨセフの生まれ故郷ベツレヘムに、つまりヨセフの実家に帰ってきた。セム系の言葉、ヘブライ語やアラム語やペルシャ語、そういった言語圏に属する民族はとりわけ家族や部族を大切にする。と言われている。聖霊によって身ごもったと、その当時は誰もわからなかったのだから、マリアの妊娠と出産は、ベツレヘムの村では、律法に違反したカップルとしてしか見なされなかった。いくら親戚とはいえ許し難い、ということで排除され、その結果が家畜小屋だったのではないのか。旧約聖書のイザヤ書1・3、エレミヤ書14・8、ミカ書5・1と関係づけて読むことも出来るが…。

 イギリスのロイヤルベビーの誕生をまだか、まだかと待ちわびる人々、そして誕生を大喜びする光景はここにはない。居場所を捜し倦ねた結果、ようやく泊まることが出来た場所が「家畜小屋」である。そしてこのドラマは、今も続いている。

 「居場所」を求めている。居場所とは、「空間」だけを指してはいない。そこには関係も含まれる。今、多くの人たちが「居場所」を求めている。果たして、教会はその人たちの居場所となる自覚があるのだろうか。教会形成が教勢拡大のみに終始するかぎり、居場所となり得ることは難しい。現在、どのような人たちが居場所を捜し倦ねてさまよっているのだろう。そのような人たちがようやく居場所をこの教会に探し求めてきた時、どのような態度で接しているのか、あの二人息子の譬えで(ルカ15・29)の兄のようではないのか、そして父のような振る舞いをすることが出来るのか。イエスはそのような人たちの側におられる。