【荒れ野からの希望】
  ルカよる福音書1章67~80節


 イタリア以外の教皇がポーランド、ドイツに続き、アルゼンチンから、しかも史上初のイエズス会から第266代ローマ教皇(ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ)が選出され、清貧として生きたアシジのフランシスコ、日本にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエル。二人のフランシスコから彼は、フランシスコと言う教皇名を名乗った。

 先週に引き続きバプテスマのヨハネについて考える。67節「父ザカリアは聖霊に満たされ」と書かれている。ザカリアは、天使ガブリエルによって、その子の誕生を知らされたにもかかわらず、彼はその言葉を信じることも受け入れることも出来ずに口がきけなくなってしまう。「この子の名はヨハネ」と板に書いた時、彼の失語症は回復する。聖霊に満たされたザカリアは預言する。ここで私たちが知らねばならないのが、解放されるイスラエル民は、小さくされている人たちであると言うことだ。ラケル、ハンナの不妊、そして不妊の女性たちへの祝福は旧約を経てエリサベトにも及ぶ。そして不信のザカリアが預言(賛歌)をする。

 「角」は戦いの力を象徴する。今、水曜日の聖書研究・祈祷会では、サムエル記を読んでいるが、先週はイスラエル最初の王サウルの失脚について学びあった。次に登場するのが、ダビデである。彼は、エッサイの末の子であった。サムエルは彼に油を注ぐ。彼は、サウルや敵の手から逃れ、救い出された日に、主は盾であり、救いの角であると宣言している。(サムエル記下22・3、詩篇18・3)主は自分を守る盾であり、自分の代わりに相手を攻撃してくれる「角」であると言う。やがて紆余曲折を経てダビデが王となる。

 ダビデは小さい者を象徴している。どんなときにも、主が守って下さる。68~75節は、詩篇34、67、103、113節が引用されている。後半の76~79節以下では、その子が神の前にどのような歩みをするのかが語られる。しかもそれだけではなく、イエスのことが語られていると思われるところがある79節。彼は、イエスの「先駆者」である。先駆者は、時流に流されることも、空気を読むこともしない。かれらは神の前に誠実に生き、他人がどのように評価をしようとも、人目を気にすることはない。だからこそ、エレミヤは孤高に生きることが出来、そのように神の言葉を語る者を神は祝福される。そしてバプテスマのヨハネはイスラエルの時から、「時の中心」ヘの橋渡しをする。彼は、エリヤのように徹底した生き方をする。このことはこれからも学ぶことになるが、先週は、イエスの受洗について語ったが、彼はクムラン集団・教団に属していたと言われている。

 彼らは(ヨハネとイエス)は、徹底していた。神殿で、犠牲を献げることが出来ない人たちに神殿を経なくても、あなたは救われる。民衆は彼の言葉を受け入れ、バプテスマ運動は展開される。

 ルカが、イエスの受胎告知と彼の告知と誕生をサンドイッチのように挟み込むかたちで物語にしていることには、あるメッセージがある。歴史の先駆者は、時流に流されることも、空気を読むこともしない。ただひたすら、己の信念のみ生きる。リーダーとはそのような資質を持ち合わせている人である。バプテスマ運動から、イエス運動へ、この流れの中で、「無資格者」すなわち、「神の国」のキップを手に入れることが出来ない人たちが、神の国の食卓に招待される。ヨハネを経ずして、私たちはイエスを理解することは難しい。先駆者に学びつつ、イエスがどのように歩まれたのか、十字架と復活・来臨の中間時を生きるものとしての私たちの生き方が、「今」問われている。