【恐れることはない】
                                       ルカによる福音書1章26-38     

 大阪市の市長で、日本維新の会共同代表の橋下徹氏は軍隊慰安婦に関して「日本がしていたようなことは多かれ少なかれ他の国もしている。 日本だけが悪くいわれるのは適わない。日本の『慰安婦』制度は『国家レイプ』のようなものではない。」という発言が、国内外に大きな波紋をよんでいる。また評論家櫻井よしこ氏も「強制の事実はない。慰安婦の証言はあてにならない。」と抗弁している。

 教会は教義・教理として「処女降誕」の教説を作り、そのように信じることが信仰である。と言ってきた。そのことが科学的に証明出来るのか、どうかわからないが、大切なことは「恐れることはない」という天使ガブリエルの言葉をマリアが受け入れたことなのではないか。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」その言葉に対して彼女は「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」。
 
 年老いたエリサベトはマリア同様に天使ガブリエルを受け入れる。けれどもザカリアは不信仰ゆえにそのことを受け入れることができず、バプテスマのヨハネが誕生するまで口がきけなかったことが、62節以下を読むと分かる。福音書は、バプテスマのヨハネは選ばれた特別な人物として描いている。すなわち神の不思議な「力」によって、祭司である父親、アロン家に属するものである母親からバプテスマのヨハネは誕生した。

 イエスの母マリアはどうかと言えば、彼女はナザレというガリラヤの町の出身であると言う。マリアという名前は、アラム語では、マリアムと言う。これはヘブル語の「ミリアム」(出エジプト記15章20節)と関連して読むことも出来る。けれども、彼女がナザレというガリラヤの出身に注目すると、旧約にはこの地名は一度も出てこず、またヨハネによる福音書1章46節、7章41節によれば、良いイメージでは語られてはいない。父親であるヨセフは、ダビデ家に属するものであるが、マリアはそうではない。ある学者は、このような伝承は他のギリシャ文学や宗教などにも見られると書いていた。また上流階級の女性たちは、自由奔放に生き、社会は中産階級の女性たちには「貞操」を強いた。

 マリアは、どのような境遇でイエスを身ごもったのか、性が商品化され、「処女」であるということが、清いこと、大切なこと、そのような貞操観念が支配し、結婚式のバージンロードがそのようなことの意味するのだとすると、マリアがこのことに戸惑いながらも受容したプロセスは理解できない。
「性」が商品化されるとき、もしもこのような「処女性」がことさらに強調されるとき、「国家レイプ」によって性を奪われ、蹂躙された人たちはどうなのか、望まない妊娠をしてしまった女性はどうなるのか。神にはできないことは何一つない。エリサベトもマリアも不思議な神の働きによって妊娠した。これを聖書は「聖霊」と呼ぶ。大切なことは、神はこの恵みをエリサベトにそしてナザレというガリラヤ出身のマリアにもたらされたと言うことである。

 今日私たちは聞きたい「恐れることはない」この言葉は、苦難の中にある人たち、様々な偏見の眼で見られている人たち、すべての人たちにかけられている。このことに心を留めてこの物語を各自でじっくりと味わい、聖書に聞く者でありたい。神の導きと恵みを知らされたものとして。