【神からの力を受けて】
                                         ルカによる福音書1章39-56

 先週の金曜日に「東京同宗連」の総会が行われ、それに先駆けて姜尚中さんの「悩む力」と題しての講演会が行われた。夏目漱石の作品を通して、現代をどのように捉えればよいのか、人は「悩む」こと、立ち止まることで、どのように生きるのかが、語られた。あの8.15の敗戦そして、3.11後、私たちは大きな転換点を迎えたはずである。けれども、依然として競争社会の中で、人と人との結びつきは希薄となり、私たちの社会は、アベノミクスで景気が良くなった。との報道を受けて株価の乱高下に一喜一憂している。

 ルカによる福音書では「貧しい人々」にスポットが当てられている。ここに登場するのは、マリアとエリサベトである。エリサベトは、常識を越えたかたちで妊娠する。彼女は不妊症であり、老いていた。彼女は妊娠を喜ぶ「主は今こそ、こうして、私に目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去って下さいました。」けれども、その反面、五ヶ月間身を隠す。なぜ、身を隠したのか、「喜んで下さい。私は神の祝福によって妊娠しました。」素直に言えない。社会の目があったのだろうか。そして、マリアも天使ガブリエルによって妊娠を知らされる。「恐れることはない」けれども、マリアは困惑し、やがてこの天使の言葉を受け入れる。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」二人の女性に共通する事とは何か。エリサベトは、結婚していたが、不妊症であり、しかも老年になっていた。マリアは、年若く、許婚はいるがその許婚であるヨセフとは無関係な妊娠であった。すなわち二人とも予期せぬ妊娠であった。

 その後、マリアは、エリサベトの家を訪問する。そこで、エリサベトは不思議な体験をする。それが「その胎内の子がおどった」ということであった。創世記25章22節の「押し合うので…」というエサウとヤコブの物語で使われているのと同じ意味の言葉がここでは使われている。

 弟ヤコブは、長子の特権と祝福を母親のリベカと共謀して、父親イサクから兄の特権をだまし取る。

 この物語を下敷きにして、ルカはエリサベトの妊娠によって与えられたバプテスマのヨハネを偉大な者として、「時の中心」であるイエスの先駆者として他の福音書同様に位置づける。エリサベト自身が、聖霊に満たされて、「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されます。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしよう。」とイエスの誕生について語っている。

 そしてあの有名なマリアの賛歌(マグニフィカト)へと続く。ルカはサムエル記のハンナの祈りを土台にしてあの美しい歌を語る。マリアとエリサベトの祝福はどのようなことを意味するのか、それは「思わぬ」に象徴されるように、神の恵みが、一方的に老いた不妊のエリサベトと許婚はいる者の、未だ夫婦関係を持たぬままのマリアの妊娠であった。この妊娠は喜ばしい妊娠とは言えない。みんなが、こぞって、「おめでとう、おめでとう」と言って祝福の言葉をかけられるような妊娠ではなかった。けれども、マリアはこの妊娠を「幸い」のしるしとして受け入れる。幸いとは、どのような逆境の中でも生きる勇気が与えられること、姜尚中さんの言葉によれば、「悩む力」が与えられることなのである。

 人は、試練の中で、逆境の中で生きる勇気があたえられる。祝福の外にいるとレッテルを貼られるような人たちと共に主はいて下さる。そしてその人たちを「幸い」な者として祝福される。 そのことを心に留め、次週は<マリアの賛歌>を分かち合いたい。