【困惑の中で祝福が】
                                           ルカ福音書1章5~25節

 先週、NHK「報道首都圏」は姜尚中さんの小説「心」が取りあげられていた。3.11の地震と津波で死んでいった無辜な人々と「自死」した息子が最後に書き記した「末永くお元気で…」という言葉を手がかりに、彼はこの作品を書いた。番組の中で、彼が被災地に赴き、被災地で「遺体」探しのボランティア(ライフセービング)をしている息子と同年配の青年との出会いからこの小説が生まれたことなどが…、この小説が自分を癒し、多くの悲嘆の中にある人を癒していることが、不治の病で息子を亡くした悲嘆にくれる家族(母親)にスポットを当てて語られていた。

 生きている間に私たちは様々な試練を経験する。そしてその試練は予期せぬ時に訪れる。一方的になんの前触れもなくわたしたちを平気で飲み尽くしていく。東日本大震災、アメリカのオクラホマ州を襲った自然災害で…、しかしそれだけではない。

 「狭山事件」で再審を求め、冤罪を訴え続けている石川一雄さんは50年前の5月23日に突然逮捕され、一審「死刑」、二審「無期懲役」の有罪判決を受け、仮釈放の身とはなったが、今尚「見えない手錠」に繋がれたままでいる。被差別部落に生まれたがゆえに、彼は学ぶ機会を奪われた。「字が書けない者が脅迫状を書けるわけがない」と国語学者の大野晋氏が言っているにも関わらず、検察は警察署で無理やりに書かせた「上申書」で、「彼は脅迫状を書けた。」と抗弁し、三回目の家宅捜索で漸く発見された(不思議極まりない)「万年筆」を証拠に、裁判所は有罪判決を出した。他にも冤罪で「見えない手錠」に繋がれている人、無実・無罪を訴え続けて来たが、その願いが聞き届けられぬまま、絶望の淵に叩き込まれ続けた挙げ句、精神に支障をきたしてしまい、今尚拘置所で支援者たちによって支えられている袴田巌さんがいる。「見えない手錠」につながれたままの石川一雄さん、袴田巌さん、彼らは再審の扉が開かれるまでは、暗いトンネルの中にいる。光も見えなければ、この先も見えないのにトンネルを抜けることが出来るのか…。山は動くと信じたい。

 ここにひと組の夫婦が登場する。息子は有名人である。父の名はザカリヤ、母はエリサベト。父の職業は祭司である。祭司はダビデ王が制定した。彼は24組からなる祭司グループの第8組に属していた。歴代誌24章7~10節を読むとそのことがわかる。妻の名は、エリサベト彼女は、モーセの兄アロンの流れをくむ女性である。けれども、二人には子どもがいなかった。エリサベトは「不妊症」であった。当時の社会においては、それは大きな屈辱を意味した。前後するが、ザカリヤ(主は記憶する)とエリサベト(神は誓われた)のことを、「二人とも神の前で正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」と記されている。なぜ、このような老夫妻に祝福のしるしとしての子どもが与えられなかったのか。これから先も子どもが与えられる望みはきわめて薄い、ところが彼が神殿で香を焚いているとき、祭司にとってこの香を焚くと言うことは一生に一回あるかないか。ある聖書では「一世一代」と訳す。そこで思いもかけない言葉がザカリヤにかけられる。

 更に「恐れるな」その子はナジル人で、エリヤのような人であると告げられる。けれども彼は信じることは到底出来ない。これがあたりまえの反応。その結果、彼は「声」が出なくなる。そして祭司の務めを果たし終え、家に帰る。そこで彼は妻の妊娠を知ることになる。このような不思議なプロセスから神はヨハネを誕生させられた。このような人たちを神は祝福される。山は動いた。