【仲間に支えられて】 2
                ローマ信徒への手紙16章1〜5節
                                      
 昨今、新聞広告にはやたらと、有料老人ホームの宣伝が入ってくる。テレビでも大手が宣伝している。認知症になっても、安心して老いるための「終の棲家」としてのシステムとは何か。私自身、NPO法人ともしび会の理事長として、この問題について考えざるを得ない。

 先日、SSD(杉並スクールデイサービス)で、今年の研修のことが話し合われ「認知症」についても学ぶことになった。方法論、技術論だけではなく、存在の哲学ということについても学ぶようなカリキュラムが必要であると、自分の考えを述べた。なぜ、このようなことを発言したのかと言えば、ヘンリー・ナウエンのことが頭にあったからである。以前紹介したナウエンの『アダム』は、彼のターニングポイントと言える出会いの記録である。重度の障がいを負うアダムのケアをナウエンがする。彼は、アダムの存在が如何に大きな存在であったのかをあらためて知らされたことをこのように記している。「彼は人の助けなしには話すことも歩くことも出来ませんでした。人の助けなしに出来る唯一の行動は、スプーンで食べることでした。最初は、アダムに洋服を着せ、風呂に入れ、食事をさせ、その日のプログラムのために他の建物に連れられていくことをあまり喜んで受けいれられませんでした。」けれども、ナウエンがアダムを通して、変えられていく。「アダムは私たち皆と同じように限界があり、中でももっとも限られた能力しかなく、言葉で自分を表現することもできませんでした。しかし彼は成熟した人で多くの賜物を与えられていました。彼の弱さの中で、神の恵みの特別な道具となったのです。私たちの間にはいるキリストを証しする人でした。彼は繰り返し、繰り返し、彼独特のはっきりとした方法で、私に示してくれることがあります。人間らしさは頭の問題ではなく、心の問題なのです。被造物全ての中で私たち特有の個性をあらわすのは考える能力ではなく、愛する能力なのです。」

 Uコリント信徒への手紙12章9節、Tコリント信徒への手紙12章24節にあるパウロの言葉は、アダムとナウエンの関わり、また本田哲郎さんの「メタノイア」経験などにも通じる。教会は、神によって建てられるが、神は人を通して、それを建てる。パウロが名前を挙げた「よろしく」と言う人たち26人は、同胞も居れば、ラテン系、ギリシャ人たちがいる。この中で女性は何人いるのか、明らかに女性とわかる名前もあればそのように言えると考えられるひともいる。

 ある人は、教会を建てるためには、「信仰告白」が必要であるという。どのような信仰共同体として、歩んでいるのか、歩んできたのかは、信仰告白と無関係ではない。けれども、もし「告白」が知的な作業であるとすると、重い知恵遅れの人たちは、一生イエス・キリストを「主」と告白することはできない。それで良いのであろうか。(重い知恵遅れの施設止揚学園の福井達雨さんの問題提起は大きい)パウロは、使徒としてキリスト(十字架と復活)を宣教した。そして彼は、フェベ、プリスカたちだけではなく、忘れ去られてしまうような人たちによって支えられた。すなわち双方で支え合った。

 昨日、来週行われる総会に向けて、2012年度の牧師報告を纏めた。その時、あらためて思った。教会は支え合う「信仰共同体」であるということを、誰かが強いリーダーシップを発揮して、教会は前進するのではなく、キリストを中心にして、ここに呼び集められている一人一人の存在が、教会をつくりあげていく。そのことを心に刻みこみ、共に祈り合おう。