【恐れることはない】
                         マタイ福音書28章1〜10節    
 悲嘆の中にあるマリアたちに「恐れることはない」と最初に天使がいいます。次ぎに同じようにイエスは言われます「恐れることはない。」この言葉は、マリアたちにかけられた言葉なのでしょうか。福音書を読むと、この言葉が弟子たちにもかけられています。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マタイ14章27節)私たちの人生には、多くの悲しみがあります。苦難があります。その時にこの言葉が私たちを支え、慰めてくれます。「恐れることはない。」

 イエスが復活されたと言われるとき、その復活を私たちはどのように捉えることが出来るのでしょう。死人がよみがえった出来事がメッセージの中心なのでしょうか。科学的に考えれば、それは私たちの理性では納得できないことです。ある人は、「事実」と「真実」という言葉で「復活」を説明しています。

 わたしは、今日皆様と共に考えたいことは、悲嘆という視点からこの「出来事」について考えたいと思います。東日本大震災から、2年が過ぎました。未だに悲しみに打ちくだかれ、傷の癒えない人たちが大勢います。昨日の『朝日新聞』には、関連死40人を認定、震災から1年後に死亡、35人は福島からと言う見出しが目にとまりました。絶望の果ての死、この現実を私たちは、どのように受けとめることが出来るのでしょうか。

 皆様に是非、読んで欲しい本があります。『3.11後とキリスト教』という本です。荒井 献さん・本田哲郎さんがそれぞれ「聖書への九つの問い」に答え、なぜ、そのような答えをしたのか、それぞれの聖書の読み方が紹介された後、その問いを踏まえて哲学者の高橋哲哉さんが、天罰という考え方、与えられているいのちと言うことで鼎談をしています。震災後に語られた「犠牲」という言葉の危うさが掘り下げられています。愛する人の死は、受け入れがたい現実です。

 ある学者の説では、一年間はその傷は癒えない。と言っています。「不条理」と思われる死では、なおさら一年では癒えないと思われます。イエスは、十字架に架けられ「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)と最期の声を発し、イエスは死なれました。けれども、「復活」されました。そして天使は告げます。「あの方は先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」(マタイ28章7節)イエスは、今も生きておられます。その場所はガリラヤです。すなわち、小さくされた人たちの中にイエスはおられます。先にガリラヤに行かれたイエスに従うことそれが、復活を信じることなのです。復活を信じるとは、科学的な事ではなく、先にガリラヤに行かれると言われたイエスへの信従を意味します。「恐れることはない」悲嘆に打ちひしがれていたマリアたちは、その天使の言葉を信じ、行動に出ます。その時、イエスが「おはよう」と声をかけられ、そして再び「恐れることはない」と言われたのです。復活を信じるとは、立ち上がる勇気を信じることです。生きる意味を見失ったとき、生きる意味を見いだすことです。イエスは、いつも私たちと共にいて下さいます。けれども、その信仰はそれぞれの「幸福の青い鳥」探しで終わらせることは出来ないのです。そのことを心に留め、このイースターの喜びを共に祝いましょう。イエスに従う者として、「主の食卓」に共に招かれましょう。