【神のために働く】

               ローマ信徒への手紙15章14〜21節

 パウロ畢生の書であり、遺言でもあるこの手紙は、キリスト教の教理を説くものを意図して書かれたものではない。あとがきと分類することも出来るローマ15・14以下で、彼は再度自分の使命について語る。そのことを確認するために、ローマ1・8以下の「ローマ訪問の願い」と併せて読んでほしい。 

 東支区の総会では、「地の果てまで…」(使徒1・8)が宣教活動目標とされている。なぜ、いつも毎度このような活動方針案となるのか、他にないのか、と正直思うが、この教会で奉仕し、黎明保育園園長でもあった芳賀先生の一言は、大きなインパクトを与えてくれた。「東支区には、伊豆諸島があり、そして山谷もある」という一言である。山谷にある支区内の教会には、山谷伝道所・日本堤伝道所・山谷兄弟の家伝道所がある。最近、山谷兄弟の家の菊池譲牧師が「この器では受け切れなくて」を上梓した。30年間、自らも日雇いをしながら伝道と奉仕の業の記録、そこで出会った人々、忘れがたい人々との出会いを通して語られる。その他にも戸村政博牧師の「この囲いの外にも」や中森牧師の「下へ上る歌」などは、この地で福音を語るとは、どのようなことなのかを考えさせてくれる。  

 パウロはここで、自分の使命とは何か、そのことをわかってほしいという思いで「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識に満たされ」云々、善意に満ちるとは、お互いの信仰や賜物を崩すのではなく建て上げよと決意していることであり、思いやりにあふれていると言うことである。そのような関係が築かれるとき、互いに忠告、諭す、戒め合うことができると、彼は確信していると言う。互いが互いを忠告し合うと言うことを、ある説教者は「成熟している」こと、別の言葉で言えば「大人である」という。パウロはローマの人たちはその意味で、「大人」である。成熟している人たちであるという。そして今までの自分は書きすぎたと言う。 

 彼の使命は、異邦人に福音を語ることである。そしてそのために自分は祭司の役割を務めていると言う。祭司とは、神と人間を繋ぐ役割の職種である。ここで私たちが確認しておかねばならないことは、ローマ12・1の「自分の体を…」云々である。そのことを受けて、そこでわたしは神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思う。彼は、嘗てキリスト者を迫害・弾圧するものであった。そのパウロがダマスコで復活のイエスに出会い、180度の方向転換を告げる。すなわち、迫害者から福音の推進者への方向転換であり、同胞のユダヤ人ではなく、異邦人にこの福音を語ることである。

 言葉と生きざま、しるしや奇跡を通して(Tコリ2・4、Uコリ12・12、Tテサ1・5)働かれた。すなわち、神がそのような力と業を行われる。それゆえにパウロは、エルサレムから現在のアルバニアとユーゴスラビアの周りまで、福音を宣教する使命があるという。

 「終末」を意識するパウロには、既にパウロ以外の人たちによって福音宣教は行われていることを知っていたにもかかわらず、自分は異邦人に福音宣教する使命があるといい、最後にイザヤ書52・15を引用する。この箇所は「僕の歌」の一つである。(「主の僕」ローマ@42・1〜4、A49・1〜6、B50・4〜9、C52・13〜53・12)を引用し、福音を語る自分の使命を明確にする。

 ドイツの著名な天に召されたカトリックの神学者は、「宗教は冬の時代を迎えている」と言う。けれども、教会は何時いかなる時にも福音宣教をする使命があると言うことを、今の時代を見据えて考えよう。