【祈り合う仲間】

                       ローマ信徒への手紙15章30〜33節

  昨日、黎明保育園の卒園式礼拝が、この教会の礼拝堂で行われた。16名の園児が園を巣だった。卒園式では、卒園児ひとりひとりに卒園証書が手渡され、ひとりひとりの園児の特徴を踏まえた一言メッセージを上松園長が語られた後、保護者と園児たちに向かって聖書からのメッセージを語られた。私が一番印象に残ったのは、「光の子として歩みなさい」と言う聖書(エフェソ5章8節)のみ言葉である。「ひとりひとりが神さまのこどもとして歩んでほしい。そのためには、電灯の光を放つためには、コンセントにつながっていなければならないように、私たちもイエス様に繋がっていよう。」と言うメッセージが心に響いた。

 パウロはここで、未だあったことがないローマの教会の人たちに対して、「お願いします」と言っている。何をお願いするのか、それは「わたしと一緒に神に熱心に祈って下さい」と言うのが、その内容である。「熱心に祈って下さい。」をある聖書は「どうか神に対してわたしのために祈り、わたしと一緒に戦ってくれ」と訳している。それは、競技の際に使う言葉が使われているので、このように訳すことが出来ると言う。彼は、このように強い口調で、祈りの共闘を呼びかけている。

 先週の木曜日「東京同宗連」と部落解放同盟東京都連との交流・懇談・懇親会が行われた。その中で、解放同盟から同宗連に対して九つある部落解放同盟各支部と「連帯してほしい」と言う主旨の話しが、今までの歩みを通して語られた。特に、「狭山裁判」50年。再審のための運動に連帯してほしいと言う呼びかけがなされた。運動は連帯することで力を増す。「一本の矢は脆いが三本の矢は強い。」と言うたとえのように「連帯」することで、難局を乗り越えることが出来る。

 パウロは、祈って戦ってほしい。と未だ会ったこともないローマの教会の人々に向けて語る。祈りと戦いと言うことを考える時、真っ先に思い浮かべるのはどのような物語なのだろう。創世記32章23節以下「ペヌエルでの格闘」では、「祝福してくださるまでは… 」ともう一つは思い出されるのが「ゲッセマネの祈り」(マタイ27章36〜46節)である。熱心に祈るヤコブそして熱心に祈るイエスがそこには描かれている。パウロは、祈ってほしいと願う。それは、31節「不信な者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように」とあるが、それは具体的には、何を意味するのかと言えば、一つは敵意剥き出しの「ユダヤ教徒」かつてのパウロもそうであったのだが、そのような人たちから守られるように祈ってほしい。更に自分が携えて持ってきたエルサレム教会の人たちのための献金(義援金)を心から受け入れてくれるように祈ってほしいと言う。祈るとは、共に生きることである。共に生きるとは祈ることである。この二つは私たちにとって切り離すことは出来ない。

 私たちは、反差別・反原発などの市民運動とどのように繋がるのか、繋がることで意思表示をすることになる。けれども、教会は「信仰共同体」である。祈り合う仲間なのである。このレントの時、イエスが捕らえられる直前何をしたのかを心に留め、熱心に祈ることなくして、山は動かないことを知らなくてはならない。(マタイ17章20節)その祈りは、マタイ18章20節によって成立する。人数は多くなくとも、共に祈り合い、支え合う仲間がいれば、その場所が、信仰共同・協働ということが出来る。(二週間前の主日礼拝のメッセージです。今日からローマ信徒への手紙16章に入ります。)