【仕えるためには】
 
              ローマ信徒への手紙15章22〜29節

 先週の金曜日「聖書と人権」部落解放講座に出席した。今回は、『週刊朝日』の大阪市長の「橋下」記事を通して、講師に教団の部落解放センター運営委員長の東谷 誠さんと浦本誉至史さんの講演を伺った。浦本誉至史さんは、ご自身が週刊朝日に出された「公開質問状」をめぐって話された。内から怒りがこみあげてくるのが伝わる内容であった。彼はその中で、「部落差別」の実態を知らない故の無知がこのような偏向、偏見記事の土台にあると話された。

 あの未曾有の「3.11」から2年が過ぎようとしている。昨日もNHKで福島の被災者と原発事故で避難を余儀なくされた人たちのことが放映されていた。この教会でも、そのための「支援金」を集め、被災地の活動団体等に送っているが、たとえ額は少なくても息の長い支援を続けて行こう。

 パウロは、エルサレムに献金を届けるために、目的地であるイスパニア(スペイン)に行く前に、わざわざエルサレムに赴くと言う。ローマ信徒への手紙1章11〜14節を読むと彼の熱き思いが伝わるのに、なぜ、敢えて、遠回りをするのか、人間的に考えれば、一刻も早くローマに赴くべきではないかと思う。けれども、困窮するローマの教会の人たちを後回しにして、自分の目的を遂行することは出来ないと彼は考えたに違いない。援助とは、「してあげる関係」すなわち、自分は援助者で、あなたたちは援助されるという図式で物語られる上下関係ではない。パウロのこの手紙を通して、真の教会の姿が見えてくる。教会は自己目的化されたかたちで存在することはない。教会は、イエス・キリストの福音を語るのである。

 今日の宣教題を「仕えるために」とした。パウロは語る。教会は「貧しい人たち」に仕えると、そして礼拝を献げる。教会は「信仰共同体」である。私たちは聖書を人生の道標として読み、聖書を通してそれぞれが自分の生き方を点検する。

 四旬節第4主日に読まれる聖書箇所は、マタイ17章1〜13節である。そこにはイエスがペトロ、ヤコブとその兄弟ヨハネを連れて山に登られる。そこにいた弟子たちはモーセとエリアがイエスと語り合っている光景を目の当たりにする。いわゆる山上の変貌が記されている。モーセは、律法を意味している。エリアは預言者を意味する。なぜモーセとエリアがあらわれたのか、その意味を考えてほしい。イエスは、徹底的に律法に生きた。しかし、その律法は人を拘束するような道具では決してない。(マタイ12・9)ここには、人間主義が語られる。それは、エゴではない。そうではなく、律法の本質を明示される。

 けれども、その結果、13節にあるようにイエスを抹殺の企てが実行されていく。イエスの十字架の道は苦しむ者と共に生きる証しでもある。もしも、彼が自己を保全する道を選ぶのであれば、彼はこのような生き方をすることはなかった。私たちは、イエスに倣う者である。すなわち、人の痛みに共感し、仲間が苦しみ、援助を必要とするならば、出来るだけのことをする。そしてその道は、またパウロが歩んだ道でもある。パウロは教理的な意味を目的として、この手紙を書いてはいない。もしも、そのような人であるのならば、今見たようにエルサレムへの寄り道はしなかっただろう。見てみないふりをすることは容易い。困っている人に援助することは難しい。しかも、その援助が上から目線ではないとするとなおさらだ。私たちもまた、神の導きでイエスに倣う者として、「仕える者」として歩みたい。