【神を信じる歩み】
                   ローマ信徒への手紙14章7〜12節

 宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩は、大きな感動を与えてくれる。山折哲雄さんは「デクノボ−とよばれて」という本で、この詩のモデルとされている斎藤宗次郎氏を紹介する。彼は、内村鑑三によってキリスト者となる。徹底的にキリスト者として生きたため、教師の職を追われ、牛乳配達で生計を立てた。

 パウロは「誰ひとり、自分のために生きる者はなく、誰ひとり自分のために死ぬ人もいません。」と語る。けれども、私たちは宮沢賢治の詩のモデルのような生き方はしてはいない。「貧しい人々」、「虐げられている人々」、すなわち「小さくされた人々」に仕えると言いながら、自分の城はがっちりと守る。少なくとも私自身はそうだ。ある聖書学者は、「自分のため」と言うことに言及し、それはエゴに生きることを言っているのではないと言う。8節にある「主のため」という言葉を心に留めたい。わたしたちは、生きているのではなく、生かされているからだ。

 星野富弘さんの『いのちより大切なもの』というすてきな挿絵入りの本がある。彼は、24才の時、おもわぬ事故で脊髄を損傷し、9年間の病床生活を余儀なくされる。そこで、聖書に出会い、信仰へと導かれ、「自分は生きているのではなく、生かされている。」ことを知る。

 東日本大震災で、自らを犠牲にして津波の到来を知らせた人、愛する人を助けるために自分の身を犠牲にした人…たちは、いのちより大切なものに向かって無意識のうちに生きた。他者のために生きる時、私たちは生きるのではなく、生かされていると言うことを知る。すべては主の御手の中にある。キリストと結ばれ、キリストが共におられると言う「信」に支えられていることを実感する時、私たちはキリスト者として、歩むことが出来る。6章10節の「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。」すなわちキリストの御手の中にあることを示している。

 私たちが「愛さねばならない」と原理的に考え、それでいて「本音」と「建て前」で生きると言うことは、主のために生きてはいない。生きること、死ぬこともすべて主の御手の中にある。

 iPS細胞などの先進医療が進むことで、今「難病」で苦しんでいる人たちに一筋の光が差し込むかもわからない。

 私たちは、何時か死を迎える。すべてを主に委ねて生きている者は兄弟を裁かない。自分の考え方に沿わないものは排除する。自分の考え方に沿うものだけを大切にすると言う在り方は教会的ではない。教会は様々な考え方を受け入れ、見つめ合い、支え合い、祈り合う「信仰共同体」である。なぜならば、キリストはその人たちのためにも死なれたのであるから、そのような道を歩んでいるはずなのに、あなたは兄弟を裁き、軽蔑してよいのか、と問うている。

 「神の座の前に立つ」とは、どのような法廷なのか。パウロはここで、イザヤ書45章23節を70人訳で引用する。その裁きですべてが明らかにされる。神を信じる歩みとは、すべてを主に委ね、主のために生きる。すなわち、イエスキリストに倣って生きる。生かされていることにほかならない。

 神が私たちを導く。それゆえに私たちは神の御前でありていに報告することが出来る。冒頭の宮沢賢治の「雨にも負けず」のモデルのようには、私たちは生きられない。けれども、そんな弱さとエゴの中にある私たちを主が導く、傍らにいて下さる主の招きである「主の食卓」を通して、その恵みを心に留め、主によって生きるものとなることこそが、神を信じる歩みの道を生きることにほかならない。